2011.10.31「牛熊ゼミナール金融の歴史第23回 銀行の前身は両替商」
江戸時代の三貨制度により金・銀・銭という3種類の貨幣が支払手段として利用され、両替商はこの金銀銭貨の交換ニーズを背景として登場しました。両替とは「両」つまり主に東日本で使われた計数貨幣である「金」を、西日本で使われていた秤量貨幣である「銀」、もしくは小額の計数貨幣である「銭」と替えるという言葉からきています。さらに大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていたことで、手数料を取って両替をするという仕事が生まれたのです。
両替のためには基準になる相場を決めなければならず、両替屋の大手が集まりその日の経済動向を読みながら相場を立てていました。この相場は大きな資金を動かす政府である幕府にも報告されるのです。天下の台所と呼ばれた大坂では、全国各地の諸産物が集まり売買されていました。取引の多くは通帳などに基づき信用で売買された後に、商品ごとに定められた期日に代金が支払われました。この決済手段に使われたのが、銀目手形と呼ばれた手形です。このように大坂の商人は、可能な限り現金銀の取り交わしを避け、現金銀を両替商に預け入れ、手形によって決済するといった慣習が出来上がりました。
両替商はこの銀目手形(決済手段として利用された手形)の引き受け・決済や資金融通を通じ、大坂で発展したのです。さらに両替商は業務を広げ、商人や大名、そして幕府などを取引相手に、預金の受け入れ、手形の発行や決済、加えて、貸し付けや為替取引など各種の金融業務を広く営むようになりました。このように両替商は現在の銀行業務に近い金融機関としての役割を担っていたのです。特に手形の決済制度などは、同時期の欧州など諸外国の金融システムに比べても、かなり発達したものとなっていました。この信用制度の確立により、さらに大坂での商業活動が活発化しました。

2011.10.31「展望レポートから見た国内の金融環境」
10月27日に日銀は経済・物価情勢の展望(展望レポート)を発表した。まさに欧州ではEU27か国に続きユーロ圏17か国の首脳会議を行っているところでの発表でもあっただけに、その欧州に関する認識や国内の金融環境の記述を確認してみたい。
欧州では「金融システムの安定化に向けた動きも進み始めているが、その具体的な実現を巡る不確実性がなお残ることなどから、市場の緊張状態が続いている」とし、「金融面の緊張は、金融機関の貸出姿勢の厳格化や貸出金利の上昇、企業や家計のマインドへの影響などを通じて、実体経済に波及し始めている。」としている。
市場の緊張状態については包括戦略の合意により多少緩和された格好となったが、今後の問題として、民間債権者が自発的に削減するヘアカット率を50%とし、金融機関の資本増強について合意がはかられたが、今後も金融機関による貸出抑制などによる景気への影響が懸念され、それが欧州諸国の財政再建の進展を妨げることになる可能性がある。
「先進国を中心に減速した状態が続くとみられるが、その後は、新興国・資源国に牽引される形で、再び成長率を高めていくと考えられる。」としているが、新興国・資源国の先行きについてはやや疑問も残る。さらに、「こうした見通しについては、経済にきわめて大きな影響を及ぼしかねない金融市場のショックは、回避されることを前提にしている。」との但し書きもあった。これはそういったリスクもシナリオのひとつとして想定しておく必要があることを示しているようにも思われる。
そして国内の金融環境について、「経営環境の不透明感から起債が困難な電力会社を除き、社債市場の発行環境は良好な状態となっている。企業からみた金融機関の貸出態度についても、改善傾向が続いている。企業の資金繰りについても、震災後に、中小企業を中心に厳しいとする先がいったん増加したが、その後は再び改善している。」として、日本企業については、その取り巻く金融環境は緩和の動きが続いているとしている。
日本の金融環境が安定しているのに対し、米欧の金融環境との間には、際立った違いがみられとして、「LIBOR-OISスプレッドが、米ドルとユーロについては夏場以降拡大しているが、円については安定している」点を指摘している。LIBOR-OISスプレッドは、短期金融市場での資金調達のしやすさの目安ともなり、期日が先のスプレッドは資金調達についての将来の見通しを示す。もし拡大しているということは、市場での懸念が反映されてのものとなる。
日本と欧米のこの違いについて展望レポートでは、「第1に、わが国では、金融機関が、欧州ソブリン問題の中心となっている諸国の国債等を、多く保有していない点が挙げられる。第2に、金融機関が保有するリスク全体についても、これまで充実に努めてきた自己資本との対比でみて、概ね抑制された状態にある。」としている。
「日本の金融システムが、大幅な景気後退や株価下落に対して相応の頑健性を有するようになってきている」との指摘もあったが、日銀の包括緩和政策なども手伝い、国内の金融環境は欧米に比べて強固であるように見える。
ただし、「国際金融資本市場が一段と不安定化する場合などに、内外の金融資本市場間の連関を通じて株価や債券価格が下落したり、金融機関の資金調達環境の悪化を招くことを通じ、その影響がわが国の金融システムひいては金融環境に及ぶ可能性には、引き続き注意する必要がある」との断りもあった。
この場合の株価の下落への不安はわかるが、「債券価格が下落したり」という箇所については何を想定しているのであろうか。もし、「内外の金融資本市場間の連関を通じて」の日本国債の価格下落といったものを想定しているのであれば、欧州の債務危機は決して他人事ではなく、巨額債務を抱えた日本にも、何らかのかたちで信用不安が押し寄せる可能性がないわけではないことを、この文面は警告していると言える。

2011.10.28「牛熊ゼミナール金融の歴史第22回 江戸時代の貨幣の改鋳」
荻原重秀による改鋳
金銀の海外流出とともに日本国内の金銀の産出量が低下しました。米の生産高の向上や流通機構の整備などにより、国内経済が発展し貨幣需要が強まったものの、通貨供給量が増えなかったこともあり、米価は上昇せずデフレ圧力が強まりました。五代将軍綱吉は豪奢な生活を送っていたことに加え、寺社や湯島聖堂などを建立するとともに、明暦の大火や各地で発生した風水害などにより、慢性的な赤字を続けていた財政がさらに厳しくなり、幕府は1695年に貨幣の改鋳に踏み切ったのです。
将軍綱吉は勘定吟味役の荻原重秀に幕府の財政の立直しを命じ、荻原重秀はそれまで流通していた慶長小判(金の含有率84-87%)から、大きさこそ変わらないものの金の含有率を約57%に引き下げた元禄小判を発行したのです。また銀貨の品位も80%から64%に引き下げられました。しかし、金銀貨の品位引き下げが均衡を欠いていたことから、銀貨の対金貨相場が高騰し、一般物価も上昇したのです。このため1706年以降、銀貨が4回に渡り改鋳され、1711年の改鋳により銀貨の品位は20%と元禄銀貨の3分の1にまで引き下げられました。金貨については1710年以降、品位を84%に引き上げたものの量目を約2分の1にとどめ、純金含有量が元禄小判をさらに下回る宝永小判を発行したのです。
これらの改鋳により幕府の財政は潤ったものの、これにより通貨の混乱とともに物価の急騰を招き、庶民の生活にも影響が出たのです。荻原重秀に関してはインフレを引き起こしたといった批判とともに、デフレ経済の脱却を成功させ元禄時代の好景気を迎えたとの見方もあり、評価は分かれています。また、荻原重秀は著作を残していませんが「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれに代えるといえども、まさに行うべし」と述べたとも伝えられています。藩札などの紙幣も発行されていたことで、貨幣の発行には信用の裏づけがあればたとえ瓦でも石でも良いとする、現在の管理通貨制度の本質を当時すでに見抜いていた人物でもあったと言われています。
新井白石による改鋳
六代将軍となった徳川家宣は、新井白石からの建議を受け綱吉時代の財政金融政策を見直し事態の立て直しを図りました。これが「正徳の治」です。金銀貨の質を徳川家康が作らせた慶長と同様なものに戻し、これによって小判貨幣量を減少させるために金銀貨の品位・量目の引き上げを行いました。
1714年に金貨の品位を慶長金貨 (84〜87%)にまで引き上げる改鋳が行われ、元禄・宝永小判二両に相当する品位84%の正徳小判を発行しました。しかし、正徳小判の品位は慶長小判に劣るとの風評が立ち、翌年にはさらに品位を若干高める改鋳を行い、後期の慶長小判と同品位の享保小判(品位87%)を発行したのです。
新井白石は長崎貿易についても統制令を出して貿易総額を規制し、また、銅の輸出にも歯止めをかけようとしました。加えてこれまでの必需品としての輸入商品であった綿布、生糸、砂糖などの国産化を推進しました。
元禄文化に象徴される華美・贅沢な風潮を改め、幕府も徹底的な倹約に努めました。しかし、幕府による財政支出の減少や武士層の消費が大きく減退し、現在で言うところの公共投資と個人消費が減少しました。さらに金銀貨の流通量の減少傾向が強まり、物価は大きく下落し、日本経済は再び深刻なデフレ経済に陥ったのです。特に幕藩体制を支えていた米価の下落は農民や武士の生活に深刻な影響を及ぼしました。経済の安定のためには物価をコントロールする必要性があるものの、その難しさというものも荻原重秀と新井白石の政策の影響から伺えます。
将軍吉宗による改鋳
宗家紀州徳川家から八代将軍に就任した徳川吉宗は、新井白石を解任するなど人事の一新を図りました。そして享保の改革を通じて、危機的状況にあった幕府財政の建て直しのため、倹約による財政緊縮を重視しデフレ政策を実施したのです。これにより物価はさらに下落し、特に米の価格下落が激しくなりました。このため、吉宗は米価対策を打ち出したものの、商人による米の買い上げなどの政策も功を奏さず、その結果、インフレ策として金銀貨の改鋳による通貨供給量の拡大を計ることとなったのです。
ただし、改鋳に当たってこれまでのように出目といわれる改鋳による差益獲得の狙いはせず、新貨幣の流通を主眼に置いたのです。すなわち、元文小判の金の含有量は享保小判に比べて半分程度に引き下げられたのですが、新旧貨幣の交換に際しては旧小判1両=新小判1.65両というかたちで増歩交換を行ったのです。しかも新古金銀は1対1の等価通用としたことで、この結果新金貨に交換したほうが有利となり、新金貨との交換が急速に進み、貨幣流通量は改鋳前との比較において 約40%増大したのです。貨幣供給量の増加により物価は大きく上昇し、深刻なデフレ経済から脱却し適度のインフレ効果を生み出しました。


2011.10.28「次の焦点とみられるイタリアの動向」
欧州の首脳会議は長時間かけて難航しながらも包括戦略を合意するに至った。包括的な対策の3つの柱のうち、銀行のTier1基準を9%に引き上げることは早めに合意したが、EFSFの拡充策とギリシャ債務の民間負担についての取りまとめは難航した。最終的に民間保有のギリシャ国債のヘアカット率については、50%とすることで合意した。これによりギリシャの債務問題については、懸念が多少なり緩和されることが期待される。しかし、欧州の信用不安は収まるわけではなく、今後はイタリアの動向にも注意しておく必要がある。
イタリアに対しては、ユーロ圏の他の加盟国から追加の財政再建策を求める圧力が高まっている。イタリアの経済規模はギリシャなどに比べて格段に大きく、もし仮にイタリアの債務問題が深刻化すれば、ギリシャの債務問題の比ではない。イタリアはドイツ、フランスに次ぐユーロ圏で第3位の経済規模となっており、世界の中でも第7位の規模である。公的債務は1.8兆億ユーロとなっている。
イタリアのベルルスコーニ首相は、11月15日までに経済行動計画を提示することを確約し、2013年までに財政の均衡化を目指す一連の措置を提示した。ここには2026年までに年金の支給開始年齢を67歳に引き上げる方針が盛り込まれた。ただし、この年金制度改革をめぐっては、今年初めから女性の年金受給開始年齢について国内で連立を組む北部同盟と対立し、その北部連盟は経済改革の柱となる年金制度の改革で大きな譲歩をすることを拒んでおり、ベルルスコーニ首相は難しい立場に追い込まれている。一時は退任の噂すらあり、今回のEU首脳会議への出席も危ぶまれていたぐらいである。
イタリアの10年国債の利回りは、今年6%台に乗せたあとECBによるイタリア国債の購入により5%以下まで低下したが、その後再び上昇基調となり、現在は6%近辺にある。このまま分岐点ともされる7%に向けて上昇する可能性もないとはいえない。
イタリアについては、ここにきて財政が急激に悪化しているわけではなく、またプライマリーバランスは黒字転換するなど日本などに比べてむしろ財政は健全ともいえる。しかし、日本と同様に巨額債務を抱えていることで、今後3年で償還を迎える国債のため6000億ユーロ以上の資金を調達する必要があり、その際に長期金利が大きく上昇してしまうと、借換に支障をきたす可能性もある。長期金利の上昇抑制のためにも、財政健全化に向けた動きを進めることが重要ではあるが、経済は低迷しており、国内での政治問題も絡んで難しい状況にあることから、今後はイタリアが欧州の債務問題の焦点となる可能性もありうる。


2011.10.27「牛熊ゼミナール金融の歴史第21回 江戸時代の金銀銅の海外流出」
1639年に幕府はポルトガル船の入港を禁止し、いわゆる鎖国に入ったのですが、これにより日本の貿易高は減るどころかむしろ増加しました。ライバルのポルトガルが日本市場から撤退し、これによりオランダは世界最初の株式会社である東インド会社を経由した日本との貿易で大きな収益をあげ、17世紀に欧州での繁栄を築き上げたのです。
ポルトガルは日本の銀を介在してのアジアでの三角貿易を行っていましたが、オランダも同様に中国で購入した生糸などを日本に持ち込み、それを銀と交換したのです。これにより大量の生糸が日本に流入するとともに、大量の銀が海外に流出しました。またオランダはインドとの貿易に金を使っていたことで、オランダ経由で大量の金も流出していきました。
幕府は金銀の流出を防ぐために、金や銀の輸出禁止などの政策を打ち出すものの、国内に生糸や砂糖などの輸入品への需要が強く国産品では対応できなかったことで、結局、その対価として金銀が用いられたことで解禁せざるを得なくなり、金銀は流出し続けたのです。
日本の金銀の流出先としては、貨幣の材料として銀を必要としていた中国だけでなく、インドなどに流れ、また金貨についてはインドネシアのバタフィア(現在のジャカルタ)で日本の小判がそのまま流通しており、オランダ本国でもホーランド州の刻印の打たれた日本の金貨が使われていました。
金銀の流出制限のため幕府は1685年に貞享例を施行し貿易額そのものを規制しました。また、元禄の改鋳などにより金銀の質を低下させたことから、貿易の支払いに対しては、金銀に変わり、次第に俵物と呼ばれる加工食品とともに銅が使われるようになったのです。


2011.10.27「日銀は追加緩和を決定、資産買入れ等の基金を5兆円増額」
本日の金融政策決定会合において日銀は予想されていたように追加緩和を決定した。資産買入れ等の基金を50兆円程度から55兆円程度に5兆円程度増額することを8対1の賛成多数で決定した。この増額分は長期国債が対象となる。反対したのは宮尾委員で、宮尾委員は資産買入れ等の基金を10兆円程度増額し60兆円にすることを主張した。
増額にあたっては、国債の残存期間を2年以下から5年以下に延ばす案も出ているとの観測もあったが、それは見送られた。日銀はこの基金とは別に、年間21.6兆円の長期国債の買い入れを行なっている。これには日銀券ルールという自主ルールが設けられているが、この基金による買い入れ及び国庫短期証券はこのルールには縛られていない。
追加緩和の理由として日銀は、物価の安定が展望できる情勢になったと判断するにはなお時間を要すると予想され、国際金融資本市場や海外経済の影響で、経済・物価の見通しがさらに下振れするリスクにも注意が必要のためとしているが、これは文面にはないが円高対応のためと見ざるを得ない。
意外感があったのは宮尾委員の反対であり、しかも追加緩和そのものに反対したのではなく、基金の増額が5兆円では足りないとして10兆円の増額を主張した。そろそろ全員一致ではまずいと思ったので反対してみた、わけではないと思うが、とりあえず反対票が出たことは委員会制度の透明性を高める上でも好感されよう。
9月14日の函館における宮尾委員の講演の中では、「製品・部品を輸出しているわが国の企業にとっては、円高の影響を輸出先の国の物価上昇で緩和することができないために、相当厳しい競争を強いられることになります。」といった発言があるなど、かなり円高による悪影響について述べていた。また、デフレ予想の長期化なども懸念するなどしており、今後は今回の反対票もあり、ハト派としてイメージされてくるものと思われる。
今回の追加緩和については、すでにその予想が報じられており、直接的な影響は限られよう。白川総裁を信頼していると安住財務相は今朝発言していたが、その安住財務相は本来、介入と日銀の追加緩和のセットが効果的のはずが、介入そのものは対外的な配慮なのかはわからないが、いまのところ控えている(14時半現在)。このため、追加緩和効果はそれほどは大きくはないと思われされ、実際に市場への影響も限定的なものとなっているようである。

2011.10.27「日銀の追加緩和の可能性」
10月26日付けの日経新聞は、「日銀、追加緩和検討へ」と報じた。これは欧州の債務不安やFRBによる追加緩和観測により、円が1ドル75円73銭と最高値を更新したことが背景にある。27日のロンドン市場でも一時75円71銭という最高値を更新した。
米国では、ここにきてFRBのタルーロ理事がMBSの購入再開を示唆し、イエレン副議長、そしてニューヨーク連銀ダドリー総裁もQE3について前向きな発言を行なってきており、FRBの追加緩和観測が出てきた。米国では住宅市場の低迷が続いており、その梃入れ策のひとつとして、FRBによるMBSの購入再開が有力な候補となりつつある。イエレン副議長、タルーロ理事、そしてダドリー総裁はFRBの執行部の一員であることで、場合によると、11月1日から2日にかけて開催されるFOMCで追加緩和が決定される可能性も出てきた。
日銀の白川総裁は、10月21日の講演で、世界経済が全体として減速し、しかも円高圧力が強まりやすいもとでは、日本経済の先行きについて、下振れリスクを意識する必要があることを指摘している。
円相場が対ドルで75円台をつけ史上最高値を更新したことを受け、安住財務相は円売り介入の準備を財務省に指示したと伝えられた。また、日銀に対しては、適時適切な対応を取ってくれると期待していると述べたと伝わっている。
日銀が今度動くとすれば、急激な円高が進行した際にともみられていた。しかもFRBによる追加緩和期待もあるとなれば、27日の金融政策決定会合で日銀が追加緩和を決定する可能性はありうる。ちなみに、今回の決定会合は当初から1日だけの予定である。
追加緩和の内容については、26日の日経新聞によると、50兆円の資産買い入れ基金の規模を5兆円程度積み増すことや、基金増額に伴い買い入れる国債の残存期間を2年以下から5年以下に延ばす案も出ているそうである。基金の増額とともに買い入れる国債の期間を5年以下まで延長すれば、今後、復興債の発行とともに2年国債と5年国債が増額されることで、市場も好材料と見なし26日の債券市場は買い進まれた。
欧州の首脳会議の動向や、本日の市場動向など次第ではあるが、日銀が追加緩和に動く可能性はありうる。安住財務相は介入を匂わすような発言をしているが、現在の円高は急激な進行というよりも、円が最高値水準にとどまり時折高値をトライするような状況にあり、また、これまでの介入における海外からの批判などから、なかなか介入には踏み込みにくく、その分、日銀の追加緩和への期待も強いものがあるのではなかろうか。実際に今朝、安住財務相は白川総裁を信頼している、とのコメントもあった。

2011.10.26「牛熊ゼミナール金融の歴史第20回 日本における紙幣の誕生」
日本における現存する最古の紙幣は、1610年に伊勢の山田において、支払いを約束する預り証の形式をとって発行された山田羽書(はがき)です。伊勢神宮に仕える有力商人が、高い信用力と宗教的権威を背景に、釣銭などの煩わしさを少なくするために発行された紙幣であり、額面金額も銀1匁以下の小額となっていました。形や文様が統一されたことで、不特定多数の人々に交換手段として利用が可能なように作られており「紙幣」として利用されたのです。
ちなみに、世界で最古の紙幣は10世紀に中国四川省で送金手形を利用する際に発行された証明書(預り証)ですが、日本はこれに次いで世界で二番目に古く紙幣を発行していたことになります。
その後、私札は伊勢国、大和国、摂津国など近畿地方を中心に、有力商人がその「信用力」を元に発行し、室町時代末期から江戸時代初期にかけて約60年の間、流通しました。こうした私札に目をつけた各藩が発行したのが「藩札」と呼ばれる紙幣です。藩札の最初は1630年に始まった備後の福山版のものと言われていますが現物は残っておらず。現存するものとしては1661年の福井藩の札が最古のものとなっています。私札も藩札も江戸時代後期まで、ほとんど銀立の額面で発行されていますが、これは西日本では銀が経済の主流であったことが要因です。
紙幣については乱脈な発行によるインフレへの懸念とともに、偽札の問題が生じます。世界で最初に紙幣を発行した中国では、偽札防止のため細かな文字や文様などを組み合わせ簡単には真似のできない工夫がされていましたが、日本の藩札も同様に色刷りや透かしなどが実用化されていました。1856年に浜松藩が出した銀札にはオランダ語を入れるなどの工夫も行っていたのです。


2011.10.26「個人向け復興債の発行について」
財務省は震災の復興費を確保するため発行される復興債の総額11兆5500億円のうち、1兆5000億円を個人向けとするそうである。報道によると関連法案の成立後、12月からの販売開始を予定しており、これ以降、今年度中に発行される個人向け国債は復興債となる。
すでに個人向け国債については3年固定利付き、5年固定利付き、10年変動利付きのものが発行されているが、それは12月からこのままの条件で個人向けの復興債として発行されることになる。復興債を購入した個人には、もれなく安住財務相名で感謝状を出すそうである。
個人向け復興債としては、新たな商品の発行も検討されているようである。これについては、償還期間や金利設定などは現時点では未定のようである。ただし、新たな個人向け国債は利率を引き下げることも検討と日経新聞が伝えていた。個人投資家は個人向け国債の有利性や安全性はある程度理解しているものの、それでも利率が低いと購入は手控えてきた経緯がある。
個人向け国債は、今年夏のものから10年変動タイプの適用利率の算式が、これまでの「基準金利-0.80%」から、「基準金利×0.66」に変更された。このため10年変動タイプのものの販売額が7月、10月とそれぞれ2千億円台と伸びた。固定利付債との合計の販売額でも7月は4501億円と一昨年の7月以来の規模となるなど販売額は回復している。しかし、5年固定利付きは回復したといっても今年10月の発行分は1100億円で、ピーク時の2007年7月の1兆5964億円に比べて10分の1以下となっている。この原因は明らかであり、当時の利率が1.5%であったのに対し、今年10月発行分は0.32%しかなかったためである。
震災直後であったならば、何らかのかたちで復興復旧を支援したいとの意識は非常に強かったと思う。しかし、これから個人向けの復興債を購入することで、復興を支援するという意識が高まるであろうか。歴史を見ると、たとえば郵便貯金などが明治以来、国家が危機にある時にその復興の支えとなる財源として使われてきた経緯があった。しかし、個人向け国債については国家のために購入するという意識よりも、安全性の高い金融商品として個人は購入してきたと思われる。
そして、個人向け復興債については、震災復興のためという国民意識に訴えかけるのであれば、それとともに金融商品としての何らかの優位性を高めたほうが効果的ではなかろうか。たとえば、震災の影響を受けた被災地の子供たちの教育資金のため購入する際には利子が非課税になるなどの措置を講ずることはできないであろうか。米国の個人向け国債である貯蓄国債には教育資金に使う場合には利子が非課税になるという制度があったはずである。制度変更には時間も必要とされるため、なかなか難しい面もあろうが、ぜひこのようなことも検討してほしいと思う。


2011.10.25「牛熊ゼミナール金融の歴史第20回 江戸時代の三貨制度」
天下統一を果たした徳川家康は全国支配を確固なものにするため、963年に皇朝十二銭の発行が停止されて以来となる中央政府による貨幣を鋳造し、貨幣の統一に着手しました。最初に発行されたのが金貨と銀貨です。金貨は大判、小判、一分金、銀貨は丁銀と豆板銀です。
金貨の単位は両、分、朱となり一両の四分の一が1分、一分の四分の一が1朱です。十両の重さのある大判という大型の金貨は、主に恩賞用・献上用に特別に作られたもので、通貨として流通しませんでした。大判といえば豊臣秀吉が作らせた天正大判が有名ですが、こちらは165グラムもある世界最大の金貨です。
大判に対して文字通り通貨として作られたのが、小判と一分金です。時代劇に登場する小判には一両という刻印が刻まれていますが、本物の小判にも一両という刻印が打たれ、現在の1万円や100円と記されている貨幣と同様の「計数貨幣」として通用したのです。ただし、大判の「両」については重量単位となっています。
流通する金貨が計数貨幣であったのに対し、銀貨は、匁(もんめ=3.75g)という重さの単位で価値を示す「秤量貨幣」であり、まったく性質の違う貨幣となっていました。江戸時代初期の銀貨である丁銀・豆板銀は秤で計って使っていたのです。
徳川家康は貨幣の統一に際し、当初は金貨を主体に流通させようとしたのですが、西日本では中国との貿易などに際し銀が決済手段として長らく利用されており、いわゆる銀遣いがすでに支配的となっていたため、幕府としても追認せざるをえなかった面があります。この反面、東日本では金が決済手段として用いられていたことで「東の金遣い、西の銀遣い」とも呼ばれました。このため、大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていました。
金貨や銀貨に35年ほど遅れて1636年(寛永13年)に「寛永通宝」と呼ばれる銅銭が発行されました。銅銭は庶民の生活に主に使われる補助貨幣といった位置づけとなっており、銅銭の発行は後回しとなったのです。
このように江戸時代の貨幣体系は三貨制と呼ばれ、金貨、銀貨、銭貨が基本通貨として機能し、特に江戸においては金銀銭貨という三貨すべてが価値基準および交換手段に用いられていたのです。三貨制は世界の金融の歴史においても独特の形式であったと言えます。ただし、供給面での制約もあって、三貨が全国に普及するには時間もかかり、広く交換手段として利用されるようになったのは1660年代になってからです。


2011.10.25「今年度第3次補正予算と復興債の発行」
政府は21日に、東日本大震災の復興や歴史的な円高対策を柱にした総額で12兆1025億円の今年度第3次補正予算案を閣議決定した。震災の復興対策については、被災地の自治体への支援に重点が置かれ、円高対策としての補助金や、第1次補正予算の財権となった基礎年金の国庫負担分の穴埋め(2.5兆円)や、台風12号などの被害の復旧経費なども盛り込まれた。第3次補正予算後の今年度一般会計の総額は、106兆3987億円と過去最高となる。
今年度第3次補正予算案の財源については、通常の国債とは別枠で管理される11兆5500億円の復興債が発行される。残りは子供手当ての見直しや税外収入で捻出する。
閣議決定された今年度3次補正予算に基づき、財務省は平成23年度国債発行計画の変更を行った。これによると新規財源債が当初の44兆2980億円から、復興債11兆5000億円が加わり、55兆8480億円に増額される。これまで新規財源債(新規国債)は、建設国債と特例国債(赤字国債)であったが、ここに復興債が加わることになる。
そして、今年度の借換債の発行額については、当初の111兆2963億円から1兆9720億円減額され、109兆3242億円となる。これは、平成23年度の国債発行計画を公表した後の平成22年度末に、日銀再乗換による1年債の発行を2兆円減額し、市中発行による満期2年以上の国債で借り換えたため、今年度の満期到来額がその分減少するためである(PD懇議事要旨より)。
財投債については、1次補正後の16兆円から16兆5000億円に増額される。財政投融資計画についても追加されることで、その財源のうち財投債による調達が5000億円となる。
この結果、今年度の国債発行額は当初予算の169兆5943億円からは12兆780億円、1次補正後の171兆5943億円からは10兆780億円増額され、181兆6722億円となる。
国債の消化方式別発行額については、1次補正後の増額分10兆780億円について、第2非価格競争入札において1兆8838億円を増額し、前倒債発行減額による調整分について6兆3942億円増額され、個人向け国債の発行計画額も1兆円増額される。
今年度のカレンダーベースの消化額は、1次補正では増額がなかったことで当初予算比で8000億円増となり、12月発行分から3月まで2年、5年で各1000億円ずつ増額されることになった。13日のPD懇などは少なくとも1兆円以上、2兆円規模程度を見込む向きが多かったことで、これはポジティブサプライズとはなったが、市場への影響は一時的となった。
そして、11兆5000億円の復興債の発行には、このうち1兆5000億円を個人向けとすることが明らかになった。3次補正後の今年度の個人向け国債の発行予定額は3兆5000億円となっているが、10月発行分までに約1兆5000億円販売されている。復興財源確保法の成立後は、それ以後に募集を行う個人向け国債は復興債となり、その際に安住財務大名の感謝状を出すことも発表されている。
11兆5000億円もの復興債の発行とはなるが、市中消化額は市場予想以上に抑えられることになった。前倒債発行減額による調整分の活用などが大きいが、このバッファー部分もいったん使ってしまうと、来年度以降のバッファー分がそれだけ縮小されることになる。もし個人向け復興債が予想以上に販売好調となるなどすれば、そのバッファー分はあらためて確保できることになるが、果たして財務相感謝状付きの個人向け復興債はどれだけ売れるのであろうか。


2011.10.24「牛熊ゼミナール金融の歴史第19回 徳川家康の経済政策」
関が原の戦いを制した徳川家康は、江戸や東海道筋などに親藩、譜代の大名を配置し、外様大名を地方に配置しました。さらに豊臣時代からの徳川家の蔵入地に加え、大阪や長崎、鉱山など重要な要地は「天領」という直轄地とし、そこからの年貢収入などが幕府の財政基盤となりました。1615年に出された一国一城令により、大名の居城を残しその他の城はほとんど廃城としました。これは大名の軍事力を弱めることが目的でしたが、これにより城下町がさらに発展することになり、城下町を中心に経済圏が形成されました。
鎖国政策により、オランダや中国、朝鮮、琉球との貿易は幕府が独占することで、西国大名による貿易利益の獲得機会を消滅させ幕府の経済力を高めました。さらに海外からの情報も幕府に集中させたことによって、国際相場と乖離した金との価値の設定も可能となったのです。
参勤交代制度は、移動の際に大名行列という大掛かりな行進を行う必要があり、費用がかさみ結果として大名の財政を圧迫することになりました。旅費とともに江戸での生活費用も負担となり、また街道の整備や宿場の整備などにも費用がかかる反面、江戸や宿場が賑わうなどの経済効果も生み出したのです。大名の経済出費には基本的に貨幣を使用することになり、そのためには幕府の公認貨幣の入手が必要となり、幕府の経済体制が全国に浸透することにもなりました。
菱垣廻船や樽廻船や、河村瑞賢による湾岸航路の開拓などにより、日常生活物資や年貢の輸送のための海上輸送手段も整備され、江戸や大阪を中心とした大都市商業圏が形成されていったのです。


2011.10.24「過去の日本の債券相場の暴落事例 その2」
・運用部ショック
1998年7月に成立した小渕恵三政権では、次々に経済刺激策が打ち出され、国債が大量に増発された。同年11月16日に発表された20兆円規模の緊急経済対策(6兆円の恒久的減税を含む)では、財源に12兆円を上回る国債が手当てされることとなった。
翌17日に米国の格付会社ムーディーズは、日本国債の格付を最高位のAaaからAa1に引き下げると発表した。格下げの大きな理由が公的部門の債務膨張であった。
国債増発と海外格付会社による格下げで、債券市場の参加者は国債への信頼性に懸念を抱き始めた。こうしたなか、11月20日付け日経新聞に「大蔵省は1998年度の第3次補正予算で、新規発行する国債12兆5千億円のうち、10兆円以上を市中消化する方針」といった小さな記事が出た。これは国債を大量に引き受けていた大蔵省資金運用部の引き受け比率が、今後大きく低下することを示唆していた。
翌年度の当初予算は減税によって税収が47兆円に減少するうえに、国債発行額が前年約2倍の31兆円あまりに達していた。翌年1月から長期国債が、月々1兆8000億円と、一気に4000億円も増額されるという見通しも出された。1999年度の国債発行額は70兆円以上、うち市中消化は60兆円以上との新聞報道もあり、大蔵省資金運用部の国債引き受けが減るのは第三次補正予算だけでなく、来年度も急減することが明らかになった。
さらに速水優日銀総裁(当時)が、日銀による大量の国債保有に対して「自然な姿ではない」とのコメントを出した。日銀も自ら大量に保有する国債について危惧を表明したのである。
このように需給を主体とする悪材料が重なったところで、大蔵省資金運用部が国債買い切りオペを中止すると発表したのである。これを契機に12月22日に債券先物がストップ安をつけるなど、債券相場は急落した。いわゆる運用部ショックである。9月に0.7%を割り込んでいた長期金利は12月30日には2%台に乗せてきたのである。
・VARショック
2003年5月のりそな銀行に対する資本注入によって、大手銀行は潰さないといった意識が強まり、その結果、株式市場では銀行株などが買われ、海外投資家の買いなどにより、日経平均株価は2003年4月の7607.88円がバブル崩壊後の安値となり底打ちした。米国や中国などの経済成長などを背景に、日本の景気も徐々に回復し始め、その後上昇基調を強めたのである。
6月までは債券相場は1日あたりの値幅も限られながらも、じりじりと高値を更新し続け11日に30年債が0.960%、20年債0.745%、そして10年債0.430%とそれぞれ過去最低利回りを記録した。
この相場上昇過程において、目立ったのが都市銀行の一角や地銀を含めた銀行主体の債券買いであった。銀行などがポジションのリスク管理に使っているバリュー・アット・リスク(VAR)の仕組み上、変動値幅が少ないことでそのリスク許容度がかなり広がりをみせていた。株価の低迷にともなって債券での収益拡大の狙いもあり、必要以上にポジションを積み上げ、異常なほどの超低金利を演出した。
しかし、これもいわゆる債券バブルに近いものとなり、6月17日日経平均株価が9000円台を回復し、この日実施された20年国債の利率が1%割れのクーポンとなり、大手投資家などが超長期国債の購入を手控えたことをきっかけにして、債券相場が急落したのである。
この債券相場の急落の背景としては、株価の上昇とそれを裏付けるような好調な経済指標が出てきたことで、景況感の変化によるものも当然大きかった。しかし、下げを加速させたのもVARであった。債券急落に伴い変動幅が今度は異常に大きくなり、銀行のリスク許容度が急速に低下。必要以上に売りを出さざるを得なくなったことで、下げが加速されたのである。
・小沢ショック
そして最後に取り上げるのは、価格変動そのものは「運用部ショック」や「VARショック」よりは小さかったものの、国債増発への懸念や国債への信任に対する不安がきっかけとなった国債価格の下落である。これは市場では「小沢ショック」と呼ばれたものである。
2010年9月の民主党代表選挙で小沢前幹事長が立候補した。もし小沢氏が勝利すれば、ばら撒き政策による国債増発等があるのではないかと危惧され、その結果、債券先物が売られたのである。しかし、代表選挙の結果は菅総理(当時)が勝利し、債券先物はその後、反発した。
今後、日本国債が債務悪化を理由に下落するとなれば、その兆候は債券先物価格の動きに当然現れるであろう。このため、国債急落のシグナルは債券先物の価格変動から確認することが可能であると言える。



2011.10.23「過去の日本の債券相場の暴落事例」
最近の債券相場は膠着感を強めているが、この膠着相場が長続きすればするほど、その後の相場の急変といった事態が訪れる可能性が高まる。現在のところ日本の債券相場が急落するような兆しはないが、いずれ大きな暴落が起きないとは限らない。すでに巨額の国債残高が存在し、今後も日本の財政の健全化への目処すら立っていない以上、いつ長期金利にリスクプレミアムが発生してもおかしくはない。
債券相場の急落に備えるためにも、過去の事例を検証しておくことも重要ではなかろうか。今回はロクイチ国債の暴落から、債券先物スタート時の急落、そしてタテホ・ショックの3つの債券相場の暴落事例をご紹介したい。
・ロクイチ国債の暴落
国債の流動化があまり進んでいなかったころに、国債は一度大きな暴落を経験していた。それが、ロクイチ国債と呼ばれた国債の暴落である。1978年は当時とすれば低金利局面であり、4月にそれまで発行された10年国債の最低利率である利率6.1%(通称、ロクイチ国債)の国債が発行された。
1979年4月以降、本格的な金利上昇局面となり、国債価格は大きく下落した。景気拡大や原油価格の上昇により、6月にロクイチ国債の利回りは9%を超えてきた。この国債の下落を受けて、12月には金融機関の保有国債の評価法が、従来の低下法から原価法または低価法の選択性となった。
1980年に日銀は2月、3月と立て続けに公定歩合を引き上げ、長期金利も大きく上昇し、ロクイチ国債は暴落した。4月にロクイチ国債の利回りが12%台にまで上昇し、金融機関がパニック状況に陥ったのである。
その後、米国金利の急激な低下などにより債券市況は急回復したが、ロクイチ国債の暴落は大蔵省(現、財務省)の国債管理政策にも大きな影響を与えたと言われる。
・プラザ・ショック
1985年10月に東京証券取引所に日本ではじめての金融先物市場が誕生した。長期国債先物取引(以下、債券先物取引)が開始されたのである。実はその上場直後に債券相場は急落したのである。その要因は1985年9月22日にニューヨークのプラザホテルで秘密裏に開かれた会議にあった。G5と呼ばれた国(日本、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ)の蔵相・中央銀行総裁が集まり、アメリカの貿易赤字と財政赤字の双子の赤字問題を是正するため、ドルを引き下げる方向で合意した。プラザ合意である。
そこで日銀は、10月25日に短期金融市場を操作して第二の公定歩合といわれた短期金利の高め誘導を実施した。短期金利を高くすることで、ドル売り・円買いの動きを誘ったのである。日銀のオペで2カ月物の手形レートは0.5625%上昇して7.125%となり、コールレートも上昇した。
債券先物にとってこれは最悪のタイミングであった。短期金利を無理やり上げたことで、長期金利にも上昇圧力が加わり、債券が売られる展開となったのである。債券先物市場に大量の売り注文が殺到した。そうでなくても債券はスタートしたばかりであり、ご祝儀による大量の買いポジションを抱える証券会社が多かった。売りが売りを呼ぶ展開となり2日間値がつかないという大混乱となったのである。
1985年10月24日の債券先物は101円63銭で引けていた。25日、26日は値が付かず、ストップ安で張り付いたままとなった。28日にようやく96円63銭で寄り付いたものの、その後も下げて、11月14日に安値89円82銭を付けて、ようやく底入れしたのである。実に12円近い下落である。
・タテホ・ショック
19875月14日に当時の指標銘柄であった89回債は10年債でありながら、当時の代表的な短期金利であった公定歩合の2.5%に接近する。日本相互証券の端末には、89回債の売りが、2.555%に約3000億円、2.550%には約2000億円もまとまって並んでいた。ところが、それが一気に買い上げられたのである。これを全部買ったのが「公定歩合が高すぎる」というコメントをした大手証券会社のチーフディーラーともいわれている。
結局、ここで債券バブルが終焉する。この2.550%が当時の10年債の最低利回りとして記録されることになった。ちなみに債券先物は前日13日につけた119円24銭が当時の高値となる。
債券バブルの崩壊で、金融機関のみならず、事業法人でも大きな損失が発生した。1987年9月2日、タテホ化学工業が債券先物で286億円もの損失を出したことが明らかになった。いわゆるタテホショックにより、債券相場は暴落した。9月3日から5日までの3日間で、89回債の利回りは1%あまりも上昇した。債券先物市場では、9月2日終値が104円10銭だったが、5日の引け値は100円30銭となった。

2011.10.22「牛熊ゼミナール金融の歴史第18回 秀吉の経済政策」
16世紀後半以降、西日本を中心に銭貨に加えて、米が再び交換手段として利用されるようになりました。戦国時代に保存の効く米が兵糧として重視されたこともあり、転売も容易な米が銭貨に代わる交換手段として改めて受け入れられるようになったのです。豊臣秀吉は太閤検地を行うことにより、米を経済の基礎とする石高制を取り入れ、年貢についても米納制の導入を図りました。撰銭などにより銭貨価値が不安定化していた時代に、価値が安定し換金性に富む商品である米を貨幣の代わりに手中に納めることによって、秀吉は全国統一の基盤を形成していったのです。
太閤検地によって納税者と耕作者が同一として固定され、武士などによる中間搾取が禁止され、耕作者は領主からの直接的支配を受けるようになりました。土地の公用化が計られたのです。これにより大名は中央政権から知行が与えられ、中央政府の意向によって全国各地への移封が可能となり、江戸時代の幕藩体制の基礎が構築されたのです。さらに年貢となる米が武士のいる城下町に集められ、商人も城下町に定住するようになるなど、江戸時代の流通体制の基盤もこれによって形成されて行きました。
秀吉は堺の今井宗久などの豪商と結んで鉱山開発を積極的に行い、生野や生野など全国の主要鉱山を直轄領としました。ちなみに佐渡金銀山の開発には、2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公である直江兼続が力を注ぎ、産出量を大きく高めました。秀吉は開発した鉱山から産出した金銀を用いて「秤量貨幣」を鋳造しました。金貨については後藤徳乗に命じて天正大判などを鋳造し、銀貨については湯浅作兵衛常是に大黒天の極印を打刻した良質の灰吹銀を鋳造させたのです。
秀吉が鋳造を命じた金銀貨は大判と極印銀に限られていましたが、一定の品位を保った金銀貨を大量に鋳造したことにより、貨幣制度をあらためて構築され、それが徳川幕府による統一的な貨幣制度へと継承されることになるのです。貿易では、貿易港の堺を直轄地とした他、新たに博多を重視し、鉄砲の弾薬となる鉛と硝石の輸入、生糸貿易を独占したことで、これらにより秀吉は莫大な収入を得たのです。


2011.10.22「8月に米国債を中国が大量売却した半面、スイスなどが大量購入」
米財務省が毎月発表している米国債国別保有残高(MAJOR FOREIGN HOLDERS OF TREASURY SECURITIES)によると、米国債の最大の保有国である中国が大量に手放していたことが分かり、これは19日のNHKのニュースでも取り上げられていた。
8月の中国の保有高は1兆1370億ドルで、引き続き最大の保有国となったが、7月の1兆11735億ドルと比べて365億ドルの大幅な減少となった。中国政府が、ひとつきに100億ドル以上の米国債を手放したのは、過去1年では例がないとNHKは報じており、その要因として格付け会社S&Pによる格下げなどを指摘していた。また、これは3兆ドルを超える中国の外貨準備高に対して、米国の債務問題や欧州の信用不安を受けての運用先の多角化を急いだ結果であるとしている。
たしかに中国は8月に大量売却しており、それは格下げが契機になった可能性はあり、外貨準備の運用先の多角化が大きな要因であると思われる。ただし、実は米国債の格下げにも係わらず中国の売却額以上を8月に購入していた国があったのである。
同じ米国財務省のデータによると、8月に英国が438億ドル、そしてスイスが391億ドル購入していたのである。また、カリブ海の金融センター(Caribbean Banking Centers)も325億ドル、日本も218億ドル購入していた。
英国やカリブ海の金融センターの購入の背景には欧州の信用不安を背景とした、ヘッジファンドなどを経由した中東やアジアからの逃避資金が流入していた可能性がある。それに対して、スイスによるこの大量の米国債の購入の背景は何であろうか。
過去一年間の動きを見ても、スイスによる米国債の保有額は1100億ドル前後で推移していたのだが、8月に入り急に1500億ドル近くまで膨れ上がっているのである。
スイスの中央銀行であるスイス国立銀行(Swiss National Ban)は9月6日に、スイスフラン高の抑制策として、スイスフラン相場の下限目標をユーロに対して1.20フランに設定し、無制限に外貨を購入する用意があることを表明した。それまでも介入は行なわれていたようだが、ユーロだけでなくドルも大量に購入していたのであろうか。
米国債の最大の保有国である中国による米国債の保有額の減少は気になるところではある。しかし、このようにそれ以上の金額を購入している国が存在していたことで、海外による保有額全体も7月の4兆4843億ドルに比べて、8月は4兆5725億ドルと増加しているのである。
米国債の格下げによる影響もこの動きを見る限り、それほど懸念する必要もないとみられる。8月増加分の多くは逃避資金による買いとは言えども、それは米国債に対する信用の現われとも言えるためである。



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2011.10.21「牛熊ゼミナール金融の歴史第17回 信長の旗印となった永楽銭」
室町幕府の時代になると、足利義満が明との朝貢貿易(勘合貿易)を開始し、中国銭の輸入は室町幕府が一元的に行いました。輸出品は金から主に銅や刀剣へと転じたものの、銅銭は引き続き輸入されていました。
銅銭の中でも明の永楽帝の時代の1411年から作られた永楽通宝(永楽銭)が、室町時代中期に大量に輸入されました。明では洪武帝のときにすでに銭貨使用が禁じられ、紙幣からのちに銀に切り替えられていました。このため、永楽通宝は明では流通せず、輸出品として主に国外で流通していたと考えられています。
その一方、日本では貨幣経済が急速に発展していたにもかかわらず、政府による鋳造は行なわれず、中国銭貨への需要が非常に高まっていたのです。そのために日本との貿易のために永楽通宝が鋳造されることになったのです。
永楽通宝を中心とする明銭は当初、貨幣として受け入れられませんでした。このため室町幕府は明銭の使用を奨励した撰銭禁止令を公布しました。銅銭の質的な劣化や、渡来銭を真似て鋳造され私鋳銭の流通も増大し、15世紀後半以降、銭貨をその質的優劣にしたがって良銭(精銭)と悪銭(鐚銭)に区分し、悪銭については受け取りを拒否したり、もしくは割り増しをつけて受け取るという「撰銭(えりぜに)」という行為が行われるようになっていたのです。
ただし、永楽通宝そのものは質が良く、関東地方を中心とする東日本では、素材価値が安定的で形状や品質がほぼ一定していたことで、永楽通宝が基準銭貨として使われるようになっていました。しかし、唐や宋の時代の古銭を貨幣として重視していた西日本では、明では貨幣としても通用していなかったことから永楽通宝はあまり使われていませんでしたが、16世紀半ばから次第に永楽通宝の地位が高まり、全国的に永楽通宝が基準貨幣として普及していったのです。
そして、貨幣による経済の発展を強く意識した武将が織田信長であり、その旗印に貨幣(永楽通宝)の図柄を取り入れたのです。

2011.10.21「9月の公社債投資家別売買高に見る投資家動向」
日本証券業協会は20日に2011年9月の公社債投資家別売買高を発表した。これによると、信託銀行が1兆9923億円、生損保が1兆2634億円、外国人が1兆282億円のそれぞれ買い越しとなっていた。
ちなみに都市銀行も3491億円、地方銀行は9428億円、そして農林系金融機関も4989億円とそれぞれ買い越しになるなど、信用金庫の1099億円と個人の売り越しを除いてほとんどのセクターで買い越しとなっていた。
この多くの部分は国債であるとみられることで、今度は同時に発表された国債投資家別売買高から期間別の内訳を見てみると、都市銀行は超長期を6908億円買い越し、長期債を3196億円売り越しとなっており、長期債から超長期債に乗り換えたようである。また、地方銀行は中期債を6803億円買い越していた。
信託銀行は長期債主体に買い越しており、長期が1兆1980億円、超長期3694億円、中期3660億円とそれぞれ買い越しとなっている。農林系金融機関は超長期4016億円の買い越し、生損保も超長期が9163億円の買い越しと多いが長期債も2145億円、中期債も1259億円の買い越しとなっている。
そして外国人であるが、長期債を7134億円、中期債を2647億円それぞれ買い越しとなっており、国庫短期証券を8兆7018億円買い越している。ただし、8月に外国人は国庫短期証券を16兆6609億円買い越しており、それから比べると買い越し額は半分近くになった。欧州の信用不安によるリスク回避にともなう逃避資金の流入は続いているが、金額そのものは減少したようである。
8月に比べて目立つところは都市銀行の超長期債への買い越しと、信託銀行による長期債への買い越しか。9月の債券相場は8月に続いて債券先物で142円から143円の間でのレンジ相場となっていたが、9月は比較的142円台後半で推移することが多く堅調地合となっていた。この中にあって現物債は長期債が1%近辺で推移していたのに対し、超長期債は20年債主体に買い進まれていたが、これは都市銀行の長期債から超長期債への入れ替えなどが影響していたものとみられる。長期債は信託銀行、中期債は地方銀行を主体に、そして超長期債は生損保とともに都銀の買いが下支えとなっていたようである。


2011.10.20「牛熊ゼミナール金融の歴史第16回 日本での金融業者の出現」
平安時代の末から大量の渡来銭が輸入され、貨幣経済の発達とともに、富裕な僧侶などが延暦寺など有力寺社の保護のもと、銭を貸して高利の利息をとる専門の金融業者が現れ、借上(かしあげ)と呼ばれました。鎌倉時代になると、これらの金融業者が担保として物品を預かるようになり、担保の品を保管するために土蔵を建てたことから「土倉」と呼ばれるようになりました。現在の質屋です。
お金の貸し手が出てきたということは、当然ながら借り手が存在していました。貨幣経済が発達し、たとえば京都や鎌倉で過ごした御家人達は都市部での生活に慣れ、地方に帰っても同様の生活を送るようになり、消費が拡大しそのための借金をするようになっていたのです。そこに二度の元寇が起きたのですが、これにより領地が拡大されたわけできなく、国土を守った御家人たちへの恩賞は限られさらに窮乏し、借金を重ねることになったのです。
こうした事態からの御家人の救済を目的として出されたのが徳政令です。1297年に出された最初の徳政令が、永仁の徳政令です。御家人が20年以内に質入れ、売却した所領をもとの持ち主に無償で返させるとともに、御家人の関係する所領についての訴訟を受け付けないこととしました。また今後の御家人所領の売買、質入れも禁止したのです。
室町時代に入ると社会も不安定となり、土倉を持つ商人に貴重なお金や、財産や文書などを預けるものも現れました。商人は不特定多数の人々から利子付でお金を預かるようになり、預かったお金を元手に、貸し付を行う「合銭(ごうせん)」や、現在の為替に相当する替銭(かいせん・かえぜに)にも従事するようになったのです。
このように土倉は預金や融資、さらに為替業務など現在の銀行に近い業務を営んでいたのです。これは日本の金融がヨーロッパ諸国に勝るとも劣らぬ古い歴史をもっていることを示しています。また、新興の禅寺などは「祠堂銭(しどうせん)」という貸し出しを行っていました。室町幕府は禅寺などにさまざまな特権を与えられて経済保護を受け、その基盤をもとに、利殖のため金融業も営んでおり、その収益の一部が幕府に入っていたのです。
ただし、借銭・利銭、祠堂銭などによる当事の金利は年利で5〜8割にものぼるとみられたいへん高利であり、返済は容易ではなかったのです。そのため、御家人階級や農民の生活を圧迫し、土一揆や国一揆などの要因となりました。
2011.10.20「23日のEU首脳会議で欧州の信用不安は払拭できるのか」
欧州連合(EU)は現在27か国で構成されているが、ユーロ圏と呼ばれるものはユーロを通貨として採用しているEU加盟国によって構成されており、それは現在17か国となる。23日に開かれるのは、正確にはEU首脳会議とユーロ圏首脳会議である。
現在、ユーロ圏を構成しているのは、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、オランダ、ベルギー、ギリシャ、オーストリア、ポルトガル、フィンランド、アイルランド、スロバキア、スロベニア、ルクセンブルク、キプロス、マルタ、エストニアである。
ちなみに欧州金融安定基金(EFSF)とは、ユーロ圏諸国の資金支援を目的とした基金であり、ユーロ加盟国が株主になっているため拡充案の批准にはこの17か国の議会の承認が必要となったのである。
EFSFの債券発行には、ECBへの払込資本金の割合に応じて決められたユーロ圏諸国の保証を受けているが、EFSF債がAAAの格付を得るためには、EFSF全体の保証枠のうち、AAA国の拠出分が融資可能額となる。このため、当初の保証枠の4400億ユーロでは2500億ユーロしか利用できなかったため、保証枠を7800億ユーロ程度に拡大させることで、4400億ユーロまで融資可能額を引き上げられることになる。
このため、もしフランスの格付けがAAAを下回ることになれば、4400億ユーロの融資可能額が引き下げられ、その分、ドイツなどAAA国の負担が増加する懸念が出るなどすることで、フランスの格付けの行方が注目視されているのである。
18日に英ガーディアン紙はフランスとドイツがEFSFの規模を、現在の4400億ユーロから2兆ユーロに拡大することで合意し、23日に開かれるEU首脳会議で、この案が承認される見通したと伝えた。ユーロ圏関係者からは否定的な発言もあったようだが、フランスの格付け見通しが変更される可能性も出てきたことから、さらなるEFSF拡大策が決定される可能性もないとは言えない。
ただし、EFSF拡大策については懸念も出てきている。19日にフランスのサルコジ大統領、ドイツのメルケル首相らがユーロ圏債務危機について協議。その会合にはトリシェECB総裁、IMFのラガルド専務理事、ドラギ次期ECB総裁、欧州連合のファンロンパイ大統領、欧州委員会のバローゾ委員長、独仏の財務相も参加したと伝えられた。この会合はどうやら、トリシェECB総裁への慰労会が目的であったようだが、そこで独仏の意見対立が表面化したようである。フランスのバロワン財務相によれば、ECBとドイツがECBのバランスシート利用に反対したようである。
また、23日のEU首脳会議では、ギリシャ債務のヘアカット率についての協議も行なわれる可能性がある。ドイツのショイブレ財務相は大幅削減をせざるを得ないとの見方を示しており、フランスのバロワン財務相も以前には慎重姿勢ともいえる発言があったが、最近ではさらなる削減が必要との発言もみられた。
ユーロ圏内の金融機関に対しては、デクシアの破綻もあり、厳格なストレステストの再実施と、資本増強が不可欠とされる。しかし、公的資金投入となれば日本の不良債権処理の際のように、金融機関側の反発が強まることも考えられるとともに、各国財政への影響も出てくることも予想される。このあたりの協議の行方にも注目したい。
23日のEU首脳会議に向けては、ギリシャのベニゼロス財務相からは、首脳会議の結果に期待するのは、ほどほどにすべきだとの発言があり、また、ドイツのメルケル首相も、一度の会議で終わらせられるものではないとしたものの、23日の会議では重要な決定がなされるとの発言もあった。
23日に開かれるEU首脳会議とユーロ圏首脳会議においては、意見の修正が図られれば、ある程度踏み込んだ政策が決定される可能性もある。それが根本的な解決策とはならずとも、決定内容によっては市場の欧州への債務不安を多少なり緩和させることも可能なのかもしれない。しかし、あまり過度の期待も禁物のようである。


2011.10.19「牛熊ゼミナール金融の歴史第15回 日本での為替取引のはじまり」
為替取引とは、遠隔地間の貸借を決済する際に現金の輸送によらずに、手形・小切手などによって決済する方法です。「為替(かわせ)」という言葉は、現金と手形などを交替させることから「かわす」の連用形が名詞化されたと言われています。
日本における為替取引の最古のものは、1048年の東大寺文書にみられる「替米」とされています。寺社などの荘園領主が年貢物の輸送に伴う不便や危険を回避しようとしたことから、中世に入り為替取引が発展しました。鎌倉時代には御家人が鎌倉や京都で銭や米を受け取る仕組みなどに為替が使われていました。また、諸司・諸家が発給した切下文・返抄といった個人への支払手段があり、これらが現在使われている小切手・手形の元になったとされています。
渡来銭が流通するようになった13世紀後半になると遠隔地間の銭貨を対価とした為替(割符、さいふ)が登場しました。鎌倉時代後期から室町期にかけて商品経済が発展し、地方で買い入れた産物を都などで販売する商人や、地方と都市とを往来する行商人が現れました。また、定期市なども開催されるようになり、都で販売する特産物を地方で仕入れる際に都から代金としての銭を送金するため、割符・替銭という為替取引が使われるようになったのです。
割符の受取人は危険と負担が伴いますが、商取引の発達により為替取引が活発化するようになったことで、その発行と支払いを専門とする割符屋が、京都や奈良、さらに堺や兵庫といった港湾都市に現れたのです。
当時の割符の仕組みは、まず遠隔地の相手に代金を送金しようとする場合、送金者は最寄の割符屋に現金を持ち込んで手形(割符)をもらいます。そして送金する相手方にその手形を送ります。その手形を受け取った相手方は、今度は最寄りの割符屋にこれを持ち込み,手形に記された金額の金銭を入手するというものです。現在の銀行間のネットワークのように、割符屋間同士のネットワークが形成されており、このような取引が可能となったのです。


2011.10.19「不良債権問題に対する日本政府の対応を振り返る」
欧州の債務問題による域内銀行への影響が問題視されているが、今後の展開を見る上で、リーマンショックの際の米国政府の対応とともに、1997年以降の不良債権問題に対する日本政府の対応も、良し悪しはさておき、大きな事例研究となりうると思われる。今回は当時の状況を振り返ってみたい。
1997年11月に金融システム不安が一気に表面化し、3日に三洋証券が会社更正法適用を申請、17日には都銀の北海道拓殖銀行が経営破綻し北洋銀行への営業譲渡を発表した。24日には証券大手の山一證券が自主廃業を届け出、26日には徳陽シティ銀行が分割譲渡と金融機関が相次いで破綻した。これは企業や金融機関のバランスシート調整が想像以上に遅れていたことを示していた。
三洋証券の破綻の際に、コール市場での小規模なデフォルトが発生したが、これが他の金融機関破綻の引き金となった。信用リスクと流動性リスクの増大により、金融システム不安が一気に高まった。
1998年2月に30兆円の公的資金枠を設けた金融システム安定化2法(改正預金保険法、金融機能安定化緊急措置法)が成立。改正預金保険法では預金の全額保護のため預金保険機構に7兆円の国債を交付し、10兆円までの借り入れに政府保証をつけることになった。金融機能安定化緊急措置法では、金融機関の自己資本増強のため13兆円の公的資金を注入、これには金融機関が健全化計画を作成し、優先株などの買い取りを申請し、それを預金保険機構が買い取ることで公的資金を注入する。しかし、銀行はこの申請を躊躇した結果、大手18行で合計1兆7456億円の注入に止まった。
4月からは早期是正処置に伴い金融機関の自己資本が強化された。また、金融ビックバンがスタートするとともに、日銀法が改正され新日銀法が施行された。
6月に政府は大蔵省から民間金融機関等の検査・監督を分離し金融監督庁を設置して金融機関の経営監視を強化すること等で金融システムの安定化を図った。しかし、大手金融機関に対しての不安はむしろ強まり、株式市場では日本長期信用銀行の株価がすでに額面を割り込み経営危機に陥った。
7月に橋本首相が参院選で自民党は惨敗したことから退陣し、小渕新内閣がスタートし、臨時国会において不良債権処理をめざす金融再生トータルプラン関連法案の審議が行なわれた。結局は野党案に譲歩し、9月に長銀を金融再生法に基づく新たな破綻処理の仕組みである特別公的管理とすることで与野党が合意。
10月に延長臨時国会で10月に「金融機能の再生のための緊急措置に関する法律」(いわゆる金融再生法)と「金融機能の早期健全化のための緊急措置に関する法律」(いわゆる金融早期健全化法)が成立しました。金融再生法に基づき同日、長銀の一時国有化が決定した。
不良債権処理問題を先送りしてきた結果、破綻処理による国民負担は結果しては10兆円規模に達した。巨額の不良債権処理で資本不足に陥った銀行による貸し渋りが深刻化し、さらに破綻処理だけでなく大手銀行への公的資金による資本注入にも踏み切ることになったのである。
北海道拓殖銀行の破たんを受けて成立し施行された金融早期健全化法により、金融機関に対する資本注入は優先株や劣後債を引き受けることによる増資という形で行なわれ、1999年3月に32の大手銀行や地方銀行に、優先株引き受けなどで総額8.6兆円の公的資金が資本注入された。これにより金融機関のリスク許容度が改善した。
2003年5月に預金保険法102条に基づき、金融危機対応会議を経て、金融機関への特別融資というかたちで、自己資本不足が明らかとなった、りそな銀行に約2兆円を資本注入することとなり、その結果、資本注入額は最終的に総額12.4兆円にのぼったのである。

2011.10.18「牛熊ゼミナール金融の歴史第14回 渡来銭」
平安時代の中期に皇朝十二銭は鋳造が取りやめとなり、それまでの貨幣は粗悪で使われなくなったことで貨幣は交換手段として利用されなくなりました。その後、価値基準として使われたのが米や絹でした。しかし、平安時代の末期から農業生産力が向上し、商品流通の拡大などを背景として貨幣に対する需要が高まりました。また、中国との貿易などにより大量の銅銭が輸入されるようになり、「渡来銭」と呼ばれた銅銭が貨幣として使われるようになったのです。
中国からの銅銭の購入に使われたのは奥州などで産出された「金」でした。当時の日本は東アジア地域有数の金の産出国であり、大量の金が中国向けに輸出されており、それがマルコ・ポーロの「東方見聞録」における 黄金の国「ジパング」伝説に繋がったのです。渡来銭はその後、室町時代中期あたりまで国内に流入し、江戸時代前期まで国内貨幣として広く流通することになります。
平清盛は南宋との貿易で大量の銅銭を輸入し、朝廷に働きかけて銅銭の流通の許しを得て渡来銭を決済手段とし、これにより絶大な経済力と権力を手中にしました。大量の銭が流通することにより貨幣経済も急速に進んだのです。
平家が壇ノ浦で滅亡し、源頼朝が開いた鎌倉幕府は中国からの銭の輸入を行いませんでした。その後、一時的に銅銭の流通を認めたものの、貨幣経済が混乱するとの理由から、再び銅銭の流通を否定しました。しかし、貨幣経済の進展により、1226年に鎌倉幕府も渡来銭の利用を公式に認めるようになったのです。国内での貨幣の鋳造が行われなかったのは、当時の政府には地方で産出される銅から貨幣を生産するほどの力が存在していなかったことも要因です。
輸入された大量の渡来銭を基礎に、銅銭中心の経済となっていた当時の日本で、ただ一度だけ紙幣の発行の動きがありました。それは後醍醐天皇による建武の新政の中で計画されたものでした。後醍醐天皇は建武元年の1234年に、乾坤通宝という新貨を「銅楮並び」行わせようとしました。この「楮」とは紙のことで、乾坤通宝は銅銭と紙幣の二種類での発行が計画されたのです。


2011.10.18「ギリシャの管理されたデフォルトとフランスへの影響」
欧州金融安定化基金(EFSF)の機能拡充はユーロ圏17か国で批准された。この機能拡充案では融資能力の拡大のほか、流通市場での国債購入、現行の救済策の対象となっていない国への融資に加え、域内の銀行への資本注入が含まれている。
つまり欧州域内の金融機関への資本増強の安全網が整ったことになる。ギリシャの債務削減については、すでに民間セクターの債権者は7月にギリシャ債務のヘアカット率について21%の削減で合意している。
報道によると、ユーロ圏財務相会合のユンケル議長はヘアカット率の拡大に言及しており、また、ギリシャのパパンドレウ首相も、できる限りの債務削減について交渉中だ、と表明した。さらにフランスのバロワン財務相も、さらなる削減が必要なのは明らかだ、と述べたと伝わっている。
どうやらギリシャ債務のヘアカット率、つまりギリシャ国債の削減率は5割程度になることが検討されていると見られ、23日に予定されているブリュッセルでのEU首脳会議で決定されるようである。
このようにギリシャについては、管理型デフォルトに向けた動きが進みつつある。ギリシャ債務のヘアカットは実質的なデフォルトとみなされるが、過去のアルゼンチンやロシアなどのデフォルトとの事例とはやや異なり、管理されたデフォルトとの認識のようである。しかし、それでもOECD加盟国の中でははじめてのデフォルト事例ともなる。
大幅なヘアカット率によっては、資本増強の枠組みが整ったとはいえども、域内金融機関の信用収縮を誘発する懸念も出てきている。すでにギリシャやイタリアの国債などを大量に保有していたフランス・ベルギー系の大手金融機関のデクシアは解体されることになった。デクシアは950億に上るとみられる不良債権を本体から切り離し、受け皿機関に移し、これにフランス、ベルギーが政府保証を与える。
デクシアに対するフランスの負担はそれほど大きくはないとしても、ギリシャ債務のヘアカットにより、ギリシャなどへの融資額の大きなフランスへの負担が大きくなり、その結果、フランスが格下げされる懸念がある。
17日には格付け会社ムーディーズがフランスの格付見通しを3か月以内に変更する可能性を指摘しており、見通しはネガティブへと修正するとみられ、先々のフランス格下げの可能性は現実味を帯びてきた。
フランスが格下げされると、それが今度はEFSFに影響が及ぶ可能性がある。フランスが格下げされた場合には、残りのトリプルA格の国々が拠出負担を引き上げることが必要になる可能性が出てくるためである。
ギリシャの債務不安の封じ込めに対して、ドイツそしてフランスを中心にここにきて積極的な動きを見せており、市場も一時楽観的なムードも広がりつつあった。しかし、ギリシャ債務のヘアカットにより、その影響がフランスなどに及べば、欧州の債務問題はあらたな展開を迎える可能性もある。まずは23日のEU首脳会議に向けた動きに注目したい。


2011.10.17「牛熊ゼミナール金融の歴史第13回 イギリスにおける国債への投機」
イギリスで1720年の南海バブルの崩壊以来、株式にかわって投機の対象になったのが、国債です。1734年にサー・ジョン・バーナード法により先物とオプションの取引禁止が定められたのですが、この法律に触れないようなかたちでの取引が編み出されていたのです。
たとえば先物取引の際に、はるか先の期日を決済日とする方法がとられました。1730年代には四半期ごとに決済する方法が一般的になり、その後6週間を決済期間とする方法に移行しました。国債担保融資も行われ、また証券取引所ではオプション取引も活発に行われていたのです。
ナポレオン戦争の間、イギリス政府は4億ポンドを超える国債を発行し、この国債を対象とした投機により、50万ポンドを超す資産を形成した人物がいます。この資産を得たのち若くして引退し、「比較優位の原則」などで有名な経済学者となったデイビッド・リカードです。
2011.10.15「第3次補正予算に伴う国債増発の影響は限定的か」
昨日、財務省で開催された第40回目となる国債市場特別参加者会合(PD懇)の議事要旨が、本日朝方公表された。この中で、まず財務省から平成23年度第3次補正予算に伴う国債発行計画についての説明があった。
「平成23年度第3次補正予算について、10月7日に閣議決定された基本方針によると、総額概ね12兆円程度の歳出であり、その財源については、歳出削減等のほか、同決定の参考資料において復興債を11.4兆円程度発行することで調達することとなっている。また、財政投融資計画について、1.3兆円程度を追加することとなっているが、その財源のうち、財投債による調達は数千億円になる見込みである。」
「更に、補正予算の機会に借換債の発行額を見直すことに伴い、借換債が2兆円程度減額されることとなる。これは、平成23年度の国債発行計画を公表した後の平成22年度末に、日銀再乗換による1年債の発行を2兆円減額し、市中発行による満期2年以上の国債で借り換えたため、今年度の満期到来額がその分減少することによるものである。」
14日の日経新聞の報道などによると、2011年度第3次補正予算案や復興増税の関連法案を審議する次期臨時国会は20日に招集される。それを前にして、民主党は自民、公明両党と協議を行なっており、復興債については償還期限が延長される可能性があると報じられている。また、復興債の発行額そのものもまだ流動的な面がある。
現状では、財務省は復興債、財投債及び借換債の増減を合計した国債発行総額としては10兆円程度の増発を見込んでいるようである。
ただし、財務省は「当該金額をそのまま月々の入札額に上乗せすることは考えていない」としており、「財投債の不用(7.1兆円)や特例公債の出納整理期間発行分の発行取り止め(2兆円)、第U非価格競争入札の上振れなど」から、カレンダーベース市中発行額の増額は相当程度抑制するとしている。
具体的には、第U非価格競争入札において上半期実績における上振れ分を増額し、前倒債発行減額による調整分についても相当規模の増額が想定され、個人向け国債の販売が当初予定を上回ってきていることで、こちらの発行計画額の増額も加わると、かなりの削減となることが予想される。
つまりは第3次補正予算に絡んでの10兆円規模の国債増発があったとしても、かなりの規模で市中消化額が押さえられることが想定されるわけである。その市中消化額については、まだ流動的な面はあるものの、どうやら数兆円規模になるのではないかと予想される。
この金額についてPD懇の参加者からの予想をみると、2.4兆円、2兆円程度、総額1.4兆円、2兆円、1.8兆円と予想はややバラけてはいるが、おおよそ2兆円あたりを中心とした予想となっている。
また、年限別配分については投資家需要とともに、復興債の償還期限にもある程度は影響を受けるとみられることもあり、PD懇の参加者の多くも予想しているように、中期債などが主体になるのではないかと予想される。
14日に開催された国債投資家懇談会での投資家の意向なども配慮して、増発に係わる国債市中消化額の年限別の振り分けが行なわれるとみられる。増発については、国会審議の行方次第ではあるが、11月もしくは12月あたりから開始されるものと予想される。
この国債増発による市場への影響については、すでにこのようにある程度の金額の増発を市場参加者が予測している以上、限定的なものとなると予想される。
10兆円規模での国債増発でもびくともしないのが現在の日本国債を取り巻く状況である。これにはこれまで前倒し発行などにより、ある程度の増発であってもそれを吸収できる環境を整えてきていたことや、PD懇に代表される国債管理政策が進展していたことが大きな要因である。
それとともに日本国債に対しては、まだまだ強い需要が存在しているためである。それは、今回のPD懇でもそれを意識している業者から、増発に関して国債需給を懸念するような発言がなかったことからも伺えるのである。

2011.10.14「牛熊ゼミナール金融の歴史第12回 ミシシッピ計画と南海バブルの崩壊」
スコットランド人のジョン・ローは、フランス王立銀行の設立に寄与し、1717年にフランス領ルイジアナミシシッピー金鉱開発を目的としたミシシッピ会社を設立しました。その後、フランスの東インド会社や中国会社を併合し、造幣局そして中央銀行の王立銀行までも傘下に収めたのです。
新会社はルイ14世が生み出した総額15億ルーブルもの政府債務をすべて肩代わりしました。新株発行の払込については国債を額面の2割で引き取ると発表し、払込については4回の分割払とし最初の1回だけ現金、残りの3回は手形でよいとしたのです。これらのプロジェクがミシシッピ計画と呼ばれたものです。
国債そのものや手形で新株が購入され、1720年に政府の全負債はこの会社に移り、フランス国債の保有者はこの会社の株主となったのです。政府は多額の債務返済を一時的に免れ、債務免除されたような状況になりました。
さらに王立銀行の株式払い込み手形を貨幣として機能させ、金貨が紙幣へと置き換えられました。ミシシッピ会社の株が値上がりすると紙幣を増発され、これにより資産バブルが発生し、未曾有の投機ブームが起こりました。当初500ルーブル以下であった株価は1719年後半には2万ルーブルを上回るまでに上昇したのです。ところが1720年に入り投資家が売却益を得ようと売りが殺到し、株価は急落しました。さらに払込手形という紙幣を金に替えようと王立銀行に人が殺到した結果、ローは払込手形の金との互換性を失効させる宣言をし、ミシシッピ計画は破綻したのです。
投機資金がイギリスからパリに流れるようになり、それを危惧したイギリス政府はジョン・ローの制度を利用し南海会社を設立しました。1711年にイギリスで南アメリカのスペイン植民地との貿易の独占権を与えられた南海会社が設立されました。ただし貿易では収益が上げられず、富くじの成功により金融機関として成功を収め、1719年に総額170万ポンドの年金型国債を引き受け、それを自社株式に転換したのです。
国債の保有者には当初の転換比率より有利な条件で株式の転換を提案し、また南海会社の株価が高いほど国債との交換に必要な株数が減り、会社と政府に分配される利益が多くなる仕組みを取り入れた結果、関係者すべてが南海会社の株価上昇で利益が享受できる仕組みとなっていたのです。
南海会社の株の売り出しは年4回にわたり実施され、ジョン・ローがミシシッピ会社の株式発行の際に使った方法を取り入れ、当初の払い込みは総額の2割に抑え、自社株を担保に株主に融資するなどしたことで、その都度株価は大きく上昇していったのです。
これをきっかけに投資ブームが起こり、毎日のように新興企業が設立され、投機熱は社会階層の壁を超えて強まり、株価は大きく上昇しました。1720年の夏に、類似企業との過当競争を回避しようと、会社の設立には議会の許可を義務付ける法律が制定されました。しかし、この法律の制定などが結果として株式市場の加熱を冷ますこととなり、一気に地合が悪化し南海会社の株価は急落し、経営陣までもが株を手放しました。売りが売りを呼ぶこととなりバブルは崩壊していったのです。1721年、イギリスはバブル防止法を制定、企業に新たに株式公開することを禁止し、それは100年の間続くこととなったのです。


2011.10.14「日銀の追加緩和は円高や株安次第か」
日銀は13日に、9月6、7日に開催された金融政策決定会合の議事要旨を発表した。これを基にして、今後の日銀の追加緩和の可能性を探ってみたい。
当面の金融政策運営についての議論の中で、「何人かの委員は、このところ、景気の下振れリスクは幾分高まっているが、8月に実施した基金の増額に際し想定していた範囲内であるとの見解を示した」とある。
この場合の景気の下振れリスクについては、米国のバランスシート調整圧力やソブリン・リスク問題の影響などによる海外経済の先行きを巡る下振れリスクを受けての、日本の為替・金融資本市場の変動が、日本経済に与える影響を指しているようである。つまり、日本の為替・金融資本市場の変動とは円高・株安のことを示しているとみられ、その動向をかなり注視している姿勢がうかがえる。
「また、何人かの委員は、米欧金融資本市場で緊張が高まっているにもかかわらず、日本の金融市場の安定が維持されていることには、基金の増額が何がしか影響していると述べた」
「何がしか影響」との表現が、現在の日銀の追加緩和、この場合は基金の増額という格好だが、その限界があることを示しているようにも感じられる。
「こうした中で、複数の委員は、日本経済の直面する厳しさが、国内外の構造的な要因から生じている面も大きいことを踏まえ、金融政策で対応し得る問題とそうではない問題を見極めながら政策を進めていく必要があると述べた。」
国内外の構造的な要因とは、具体的に何を示しているのか、これだけでは判断しにくい。国外の要因は欧州の債務問題等を示していようが、国内の構造的な要因とは何を示すのか。もしデフレであるとすれば、それは金融政策で対応すべきものであるとの一部からの声も聞こえてきそうだが。また、日本の債務問題も含んだものなのであろうか。
「複数の委員は、欧州のソブリン・リスク問題の帰趨が不透明であるなど、景気の下振れリスクがなお高いことを踏まえると、事態の展開によっては、先行きさらなる金融緩和が必要となる可能性もあるとの見解を示した。」
ここで気になるのは、「事態の展開によっては」との表現か。つまりは欧州のソブリン・リスク問題の影響により日本の為替・金融資本市場が変動するという事態の展開によっては、追加緩和も辞さないというように読み取れる。
「これに対し、一人の委員は、金融緩和の一段の強化が、市場の流動性低下や金融機関の収益機会の縮小などを通じて、かえって、金融システムを不安定化させたり、金融政策の効果浸透を阻害したりすることがないよう、十分に配慮する必要があると述べた。」
このあたり前回の量的緩和政策の際にも指摘されていたことではあるが、追加緩和の際の副作用の問題である。しかし、現在の包括緩和の強化であるのならば、それほど副作用は心配する必要はないように思うのだが。
以上のことから、今後の日銀の追加緩和に関しては可能性は十分にあると判断される。しかし、FRBやECB、BOEなどがここにきてツイスト・オペやカバード債の購入を再開したり、量的緩和策を拡大してきたが、日銀は8月に資産買い入れを増額したあとは動いていない。今後は欧州の債務問題などから、再び円高が進行し最高値を更新したり、東京株式市場が急落するなどしてこない限り、日銀は当面、静観の構えで望むものと予想される。

2011.10.13「牛熊ゼミナール金融の歴史第11回 アムステルダム取引所」
1585年にスペイン軍がアントウェルペンに侵攻したことでアントウェルペンの取引所は没落し、それに変わって栄えたのがアムステルダムです。17世紀はじめにオランダは、商人が世界各地に進出し、ヨーロッパで最も経済が発達した国となりました。
オランダは株式会社に加え、銀行、複式簿記、為替手形、そして証券市場などが発達し商業資本主義の基礎を築き上げました。世界最初の中央銀行はスウェーデンのリクスバンクと言われていますが、1609年に市の条例で設立されたアムステルダム振替銀行ではないかとの見方もあります。預金には金利はつかず、保有する金の範囲でしか紙幣を発行せず、融資はほとんど行いませんでした。こうしたアムステルダム振替銀行の高い信用などを背景に外国為替の割引が活発に行われ、これによりアムステルダムが国際的な取引で支配的な地位を確立したとも言えるのです。
1530年に設立されたアムステルダム取引所では商品、為替、株式、債券そして海上保険などあらゆる種類の金融商品や金融サービスが売買されていました。そして取引の主流は先物取引となり、穀物や香料、砂糖や銅、硝石などの先物取引が行われていました。
世界最初の株式会社であるオランダ東インド会社の設立も大きく影響し、アムステルダム取引所では多くの株式が集められ、その株式に加え、すでに株の先物やオプションの取引も行われていました。
アムステルダム取引所では、買い方、つまり強き筋(ブル)と、売り方、つまり弱き筋(ベア)の攻防戦が繰り広げられていました。このブルとベアの語源は、ベアが「捕らぬ熊の毛皮を売る」という諺から来たとの見方があります。日本の諺の「捕らぬ狸の皮算用」と同じように、入手できていないものを売る、つまり空売りをするという意味となります。これに対してブルはドイツ語の「吠える」を意味するビューレンを語源としているとの見方があります。


2011.10.13「リーマンショックとギリシャショックの違い」
10月7日の日銀金融政策決定会合後の白川総裁の会見の中で、現在のギリシャを発端とする債務危機と2008年のリーマンショックの違いについての白川総裁の発言があった。これをもとにして、リーマンショックとギリシャショックの違いについて改めて検証してみたい。
記者からは、リーマンショックのような世界的な金融危機に発展する惧れが無いのかどうかについての質問であったことで、総裁はまず「リーマンショックと現在の状況、正確に言いますと、リーマンショックが起こる前の状況と現在の状況を比較して、どのようにリスクを考えるのかというご質問だと思います。」と質問の意味を整理している。
リーマンショックはそれ以前に、サブプライム問題が発生しそれが2007年のパリバショックなどを経て、リーマンショックにより世界的な金融経済危機に発展した経緯がある。2010年1月に発生したギリシャショックも、いまだ沈静化されずそれどころか域内金融機関への影響が懸念されるなど、リーマンショックと同様の危機が発生するのではないかとの懸念も出ている。
「類似点から先に申し上げると、2008年秋のリーマンショックに至る過程では、短期金融市場において金融機関の信用力を懸念する動きが強まり、銀行間金利の上昇圧力が高まっていきました。今回の局面でも、同様の動きがみられており、欧州の金融市場は緊張した状態にあると思っています。」
「一方で、相違点もあります。リーマンショックの時には、民間金融機関の信認が懸念の対象になっていたのに対して、今回の局面では、通常は信用リスクが意識されずに金融取引で大きな地位を占めている国債が懸念の対象になっており、その分、影響に拡がりがみられます。」
リーマンショックの際には金融機関の資金繰りに多大な影響を及ぼし、金融のシステミック・リスクにまで発展していった。大規模金融機関が破綻したことで金融市場は極度の不安に陥ったのである。大手金融機関に対する信用が失われた結果、相互で疑心暗鬼となり、危機が増幅していったといえる。
これに対してギリシャショックは、通常は信用リスクが意識されないはずの国債が懸念の対象となっている。ギリシャの問題については、ギリシャの抱える財政赤字と経常赤字の双子の赤字が問題視されてはいるが、きっかけはあくまで2010年1月に欧州委員会がギリシャの統計上の不備を指摘したことによる信用の失墜である。
「今次局面では、財政面での支援措置についてはユーロ圏の17の国の合意・承認が必要であることも多く、周縁国への金融支援などの施策実行に、一定の時間を要してしまうという面もあります。これはマイナス面での違いです。」
民間金融機関の救済ならば、リーマンショック後に米国政府が方針を転換して大手保険会社AIGに対して緊急融資を行って救済したように行動は早い。しかし、これが国への支援、しかもユーロという国を跨いでつくりあげたシステムの中の国への支援となるだけに、実行に時間がかかり、その時間差がリーマンショックとは違うリスクを生じさせている面はある。
「しかし一方で、リーマンショック時の経験を踏まえ、現在では、金融機関に対する流動性供給や資本の強化について体制の整備が進んでいるという、プラス方向での相違点もあります。ECBは、固定金利かつ全額無制限方式のオペを続けているほか、主要国中央銀行と協調して、年末越えとなる米ドル資金供給の実施を決定するなど、ユーロ・ドル双方の金融市場に潤沢に流動性を供給する体制がしっかり組まれています。」
「また、金融機関への資本注入についても、欧州の多くの国では、リーマンショックの際に整備された資本注入スキームが現在も存続しているほか、欧州金融安定基金(EFSF)の機能拡充によって、機動的に資本注入をする仕組みも今整備されつつあります。」
それでは今回、リーマンショック時のように金融システム不安が拡大するのかといえば、リーマンショックなど経験が生かされることで、ある程度、未然に防ぐことは可能であろう。実際にフランス・ベルギー系大手金融機関のデクシアが経営破綻したが、欧州連合が公的支援を含めた銀行の資本増強策をとりまとめる見通しを発表するなどしたことで、市場への影響は限定的なものに留められた。
だが、欧州の信用不安が当面解消される見通しがたっていないことも事実である。欧州連合とIMFは、11日にギリシャ政府と同国の財政・経済対策で合意したと発表し、ユーロ圏財務相会合などの承認を経て、次回の第6弾となる融資80億ユーロは11月上旬に実行される予定となり、懸念されたギリシャのデフォルトは、ひとまず回避される見込みとなった。しかし、これも根本的な解決にはならない。いったん失われた信用を取り戻すことは至難の業である。特にそれが国であれば尚更である。
リーマンショックは金融機関への信用が問題視されたのに対し、ギリシャショックは国への信用が問題視されている。このため、もしもギリシャショックがきっかけとなり、リーマンショック後のような経済金融危機をもたらすとするならば、それはリーマンショックとはまったく違ったものになるものと予想される。


2011.10.12「牛熊ゼミナール金融の歴史第10回 株式会社の誕生」
新たな航路の発見により東方交易が拡大し、それが莫大な利益を生むことがわかり、次第に官民あげて取り組むことになりました。そこに生まれたのがジョイント・ストック・カンパニーです。
航海というリスクが大きいながらも収益性の高い事業に対して国王から独占権が与えられ、それとともにすでに資金調達のために用いられ始めていた譲渡可能な株式が結びついて、ジョイント・ストック・カンパニーと呼ばれた巨大な株式会社が設立されたのです。
その中でも特に有名なのが「東インド会社」です。オランダ、イギリスを始めフランス、ドイツ、スウェーデンなどもジョイント・ストック・カンパニーである「東インド会社」を設立し、東方交易に乗り出したのです。
オランダからは複数の会社が東南アジアに進出したのですが、同国の会社間での競争が激化し共倒れの危険性があることから、過当競争を避けるために、1602年にオランダ東インド会社として統合されました。オランダ東インド会社の株式の譲渡は自由であり、株主の責任が有限責任であったことなど近代的な株式会社の性格を帯びており、その後200年間も存続し、ヨーロッパ諸国の株式会社のモデルとされたのです。
イギリス東インド会社は、初期には航海ごとに臨時に会社が設立されて清算を行うなどしていたことで、すでに永続的な会社組織となっていたオランダ東インド会社との競争に勝つことができないとして、1657年に清教徒革命で有名なオリヴァー・クロムウェルによって、イギリス東インド会社の資本構造などの会社組織の改組が実施され、オランダと同じような永続的な企業組織となりました。ちなみにイギリス東インド会社は1613年に日本の平戸に商館を設置しています。
2011.10.12「海外からの日本への債券投資の動向」
11日に財務省は8月の国際収支状況(速報)を発表した。この中で、財務省のサイトにアップされた付表3にある対外・対内証券投資のうち、対内証券投資(地域別内訳)を見てみたい。
この中でまず中国は、短期債が差し引き3456億円買い越しと、昨年10月以来の買い越しとなっていたが、中長期債については1667億円の売り越しとなっていた。
8月の中長期債の買い越しが目立ったのはフランスの2598億円の買い越しである。フランスは昨年10月も2395億円の買い越し、また今年4月も1322億円の買い越しとなるなど日本の債券市場の上昇局面で買いを入れている。
中国も今年4月に中長期債を1兆3300億円買い越し、5月も4971億円買い越していたが、6月には5085億円の売り越しとなるなど、ここにきて中長期債のポジションをやや調整させてきている。
また、日本の債券への投資額が多い英国を見てみると、そのかなりの部分はヘッジファンドなどを経由して中東マネーなどによるとみられるが、昨年9月に1兆2353億円買い越してからは、11月から12月にかけてそれぞれ3024億円、8405億円の売り越しとなるなど相場下落時に売却を行なっていた。その後、1月から3月にかけては3896億円、3525億円、4908億円と再び買い越しとなり、5月には1兆7876億円の買い越しとなり、この月の相場上昇に影響を与えていた可能性がある。しかし、6月から7月にかけては3752億円、3423億円の売り越しとなり、相場が再び上昇していた8月も31億円の売り越しとなっていた。
英国の短期債投資を見てみると8月は9兆9721億円の買い越しとなり、ここ一年の中では最大規模の買い越し額となっている。これは欧州の債務不安などにより、安全資産として一時的に円債に資金が滞留したためとみられる。
ここ一年の海外からの日本の債券、それは主に国債と思われるが、その投資の動向を見てみると、英国経由の資金が相場の上げ下げを助長しているように見られ、フランスも似た動きながら英国とはタイミングをやや異にしている。中国については、今年4月から5月にかけて保有する日本の債券の残存年数を延ばしてきたが、その動きはどうやら一時的であったように思われる。
2011.10.11「牛熊ゼミナール金融の歴史第9回 証券取引所の設立」
金融・貿易の一大拠点として繁栄したブリュージュに変わり、アントワープがヨーロッパの商業拠点となり、喜望峰周りのインド航路の発見によりその繁栄は支えられました。このアントワープ(アントウェルペン)に1531年、現在のようなかたちの証券取引所が歴史上初めて設立されたのです。
ブリュージュにおける手形の取引所をモデルにしてつくられたアントウェルペン取引所では手形や商品などの取引が行なわれていました。ここでは現金による決済以外にすでに商品のオプション取引に対する契約も扱っていました。このオプションは現在のデリバティブ取引と同様に、ヘッジとともに投機としても使われました。さらに債券を取引する第二市場も現れたのです。
アントウェルペン取引所の銘板には「国籍と言語の如何を問わず、すべての商人に役立てるために」とあるそうで、交易の自由が保証され、イギリスやポルトガルなどヨーロッパ各国が商館や駐在員を配置し、資金調達などを行っていました。またアントウェルペンでは「アントウェルペン慣習法集成」という商法も制定され、この商法がオランダの東インド会社の設立に大きな影響を与えたとも言われています。そこでは船舶の売買に加え海上保険といった取引も盛んに行われ、ヨーロッパ最大の商業・金融の中心地となっていたのです。
アントウェルペン取引所の取引で一躍有名になった人物がいます。それが「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉でも有名なトーマス・グレシャムです。グレシャムはイギリス王室から海外負債管理の任務を託され、アントウェルペンに派遣されました。アントウェルペン取引所において商才というか相場師の才能を発揮し、スペイン金の投機で成功し、イギリスの海外負債の大部分を清算した結果、1559年にはエリザベス1世からナイトの称号を与えられました。アントウェルペン取引所の運営に目をつけたグレシャム卿は、ロンドンに戻ってから同様の取引所を設立し、それが王立取引所と改称され、イギリスにおける取引所の始まりになるのです。
参考までに、証券取引所とは主に株式や債券など証券の売買取引を行うための場所であり、資本主義経済における中心的な役割を果たしています。国や企業などの資金調達と投資家による資本運用の双方が効率的に行われるようにするため、株式や債券の売買を取引所に集中させて行います。証券取引所は、投資家や証券会社自身の株式などの売買注文を市場に集中させることにより、大量の取引を可能にさせ、市場の流動性を高めるとともに、公正な価格形成を図るということが可能となっているのです。投資家は証券取引所で自らが直接取引を行うことはできません。会員である証券会社を通じて取引を行わなければならないのです。証券取引所における取引においては、大量の売買注文を公正かつ円滑に執行するために、取引時間、値段を指定する方法、取引単位、決済方法などについての細かな規定が定められています。また、売買は基本的に競争売買によって行われています。
2011.10.8「牛熊ゼミナール金融の歴史第8回 大航海時代」
15世紀になるとオスマン朝トルコは、イタリア諸都市の海軍に勝利して地中海の制海権を握り、貿易により栄華を誇っていたイタリア商人の活動は次第に抑制されてきました。 ポルトガルとスペインの両国は国王を中心とした中央集権制度を設立させており、強力な国家権力のもと、アジアから伝わった羅針盤などを使っての航海技術や造船技術の発展も加わり、新たな交易ルートの開拓が行われようになったのです。
ポルトガルとスペイン両国は競い合って海に乗り出し、1488年ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端の喜望峰に錨を下ろしました。1492年にジェノバ商人のクリストファー・コロンブスはアジアへの西航路探索の過程でアメリカ大陸を発見しました。そして、1498年にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を回ってインドに達しました。そして、1522年にスペイン王の命を受けたポルトガル人のマゼランが世界一周を達成したのです。
初期の航海は嵐による難破や、マゼランが航海途中で受けたような敵からの襲撃、さらに疫病などにより、乗組員の生還率は2割にも満たないともいわれ大変危険なものでした。しかし、遠征が成功すれば、新たな貿易路が開拓されることで交易に伴う莫大な利益が転がり込むとともに新たな領土も手にすることができたのです。航海に成功した冒険者はのちの世界史に残るほどの名声とともに、莫大な富が転がり込んだのです。
ちなみに、すでに日本語化しているリスク(risk)の語源は、俗ラテン語の「risicare」に遡れるとされ、それは「絶壁の間を縫って航行する」ことを意味しています。リスクには危険に身をさらすという意味も含まれながらも、試してみることや冒険してみることと言った意味が含まれ、そこには冒険の愉しみという気持ちも込められています。投資の際にも使われるリスクとは、失敗の危険性はあるものの成功を目指して期待に胸膨らませながら果敢に試みることを意味しているのです。
アメリカ大陸に進出したスペインは、アステカ・インカ両帝国を征服してその地を領有しました。1545年に発見されたボリビアのポトシ銀山で大量の銀が採掘され、ここで採掘された大量の銀はスペインに運び出されました。イギリスの女王エリザベス一世は、フランシス=ドレークやホーキンズらの率いる海賊に、これら銀船隊を襲わせてその富を奪った話は有名です。
安価な大量の銀・金がヨーロッパに流入したために貨幣価値が大幅に下落し、物価を高騰させました。これがいわゆる「価格革命」です。アメリカ大陸からからヨーロッパへ流れた銀は、ヨーロッパがアジアから購入する香辛料などへの支払いに当てられました。さらにアメリカ大陸の需要などから、ヨーロッパのさまざまな産業が発展し、アジアを含めて新たな世界商業のネットワークが構築され、これによりヨーロッパの商工業はそれ以降、活況を呈することとなるのです。イギリス艦隊とスペインの無敵艦隊が戦った1588年のアルマダの海戦の敗北などによってスペインは次第に衰退し、その後、イギリスやオランダが制海権を得て台頭してくることになります。
16世紀後半から17世紀前半にかけて日本も世界で有数の銀産出国でした。黄金の国ジパングの金銀の獲得を目指して、中国やポルトガル、オランダが日本との貿易に乗り出してきたのです。戦国時代になると、大規模な築城が行なわれるなど土木技術が発達し、それが鉱山開発に応用され、大量の採掘が可能となる坑道を掘って鉱石を採取するようになりました。さらに、銀の精錬技術である灰吹法が中国や朝鮮から伝えられ、この新技術により効率的に銀が抽出されるようになったのです。
2007年に世界遺産に登録された現在の島根県にある石見銀山を中心に大量の銀が国内で採掘され、17世紀当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一に相当しました。ポルトガルは日本の銀を介在してのアジアでの三角貿易を行いました。中国で購入した生糸などを日本に持ち込み、それを銀と交換し、その銀をもとに中国産の絹織物や陶磁器、東南アジアの香辛料を買いつけました。それらを本国に持ち込んで利益を得ていたのです。金銀が交換手段として受け入れられたのは、それらが中国との交易に利用できたからです。
当時の明では、マルコ・ポーロが見たという元で発行されていた紙幣(交鈔)にならって宝鈔と言う紙幣を発行していました。これは完全な不換紙幣であったことに加え、紙幣価値を保つための政策は何も行われておらず、このため価値は下がり続け、それに代わりこの時代に日本や南米から大量に流入された銀が通貨として使われるようになりました。
これに対して何度か使用禁止令が出されたものの効果は無く、課税対象を土地に移し銀による納税とした「一条鞭法」の採用によって事実上、銀が明の通貨となり銀への需要が高まっていたのです。
2011.10.8「欧州危機囲い込みとウォール街のデモ」
欧州債務危機の深刻化を受けて、少しずつではあるがそれを封じ込めようとの動きが見え始めている。ドイツのメルケル首相は、必要性が明らかであれば金融機関へ資金を投入すべきだと発言したが、EUのバローゾ委員長も、銀行の資本増強の努力を各国が一致して支えていく、と述べるなど、EU各国が協調して域内銀行の資本増強を支えていく考えを示した。
6日のECB理事会では、一部期待のあった利下げこそ見送られたが、1年物の資金供給オペを再開し、またカバード債の購入を11月から再開することを決定した。トリシェ総裁は記者会見で、据え置き決定に関しては意見が分かれ、総意によって据え置きを決めたとし、利下げに対する議論も行なわれたことを示した。
6日のイングランド銀行の金融政策委員会では、資産買い入れプログラムの規模を750億ポンド上積みし2750億ポンドにすることを決定した。量的緩和策拡大の理由のひとつに、ユーロ圏の一部の国の債務危機や金融機関の債務問題がもたらす脆弱性が指摘されていた。
これらの動きを受けてロンドン株式市場をはじめ欧州の株式市場は、銀行株などを中心に大幅高となった。また、ガイトナー米財務長官は、米国の銀行は強化され2008年のリーマン破綻のような事態は決して再発しない、と発言しこれも好感されたのか、米国株式市場でも銀行株などを含めて買いが入り、6日のダウ平均は3日続伸となり、前日比183ドル高で引けている。
これらの一連の動きは、ギリシャを発端とする欧州の金融危機に対し、それがイタリアやスペインに波及し、さらに欧州の金融機関に影響を与え金融システム不安が拡大することを封じようとの行動であることは確かであり、実際に一定の効果はあったと思われる。
しかし、これら一連の動きは中央銀行頼みの姿勢とも受け取れる。これはユーロ圏内各国が国内事情により動きが取り辛いためというのも大きな要因となっていよう。とは言うものの、動きが取りにくい中にあり、EU各国が協調して域内銀行の資本増強を支えていくといった姿勢は、危機囲い込みには有効な手段であると思う。
ただし、ここで注意したいのは、ニューヨークのウォール街での大規模なデモの動きである。経済格差反対を訴えて、ニューヨーク・ウォール街で始まったデモは拡大の一途をたどっており、警察との衝突も発生している。マスコミが騒ぎすぎているとの指摘もあるかもしれないが、完全に無視してよいものとも思えない。
日本でも不良債権処理に対しては公的資金の投入が最終的に決定されたことで、一時の危機は回避されたとの見方も強い。リーマン・ショック後の米国でも同様に金融機関を保護することより最終的に危機を封じ込めた。同様のことを現在、欧州でも行なわれようとしている。過去の例を見る限り、これは適切な手段といえそうだが、果たしてこれが欧州域内の国民に素直に受け入れられるのであろうか。
特にウォール街でのデモがこのままエスカレートするようなことになれば、欧州での世論に対して微妙な影響を与える可能性もある。ウォール街でのデモに共感するような見方が欧州でも広がるようなことになれば、金融機関へ公的資金を投入すべきだとするメルケル首相などに対し、批判の声が上がることもありうる。
昨日は9月の米雇用統計の発表があり失業率は9.1%と高止まりとなった。、ウォール街でのデモはこの失業問題が大きく影響しており、雇用情勢の動向に対しても注意する必要はある。それとともに金融経済危機に対する政府による金融機関への対応への問題点が、今後欧米であらためて問われる可能性もあり、これが欧州危機囲い込みのリスクになる可能性もある。
2011.10.7「牛熊ゼミナール金融の歴史第7回 メディチ家」
世界最初の銀行が設立され、政府による本格的な政府による債務の調達が開始され、現在の金融システムに近いものが構築された金融取引が活発化した12世紀のベネチア、ジェノバなど北イタリア諸都市で、早くも金融危機が起こっていました。
14世紀初頭になりトスカーナ地方で破産が多発し、当初の破産は限定的な地域に止まったものの、まもなくそれは広範囲な金融危機となっていったのです。フィレンツェ地方で銀行業務を営んでいたバルディ、ベルッツィなどの商会は、ヨーロッパ各地に支店を持ち、王侯や貴族に対して融資をしており、特にイギリス王との関係が深く、エドワード三世に対して巨額の資金を貸し付けていました。
1339年、のちに英仏百年戦争と呼ばれたフランスとの戦争が勃発し、英国王室と関係の深い両銀行は戦費を引き受けざるを得なくなりました。戦争は莫大な出費を伴い、債務総額は王国の価値に匹敵する、とも言われたのです。さらにバルディ、ベルッツィなどの商会が英国の戦費を賄っていると知ったフランス王は、対抗手段としてフランス全域に有る両銀行の支店を閉鎖させ資産を没収しました。これを受けてバルディ、ベルッツィの両商会は、貸付先の英国に返済を求めたのですが、英国は莫大な債務を支払う能力は無く、その結果として債務不履行は避けられず、銀行業を営んでいた商会は一時支払停止をせざるを得なくなったのです。
苦境に立たされたバルディ、ベルッツィは倒産し、フィレンツェの経済は大混乱を招いてしまいました。フィレンツェの政治も混乱を極め、一時的に民主自治の制度を放棄するという事態も招いたのです。さらに追い討ちを掛けるようにペストが猛威を振るったのです。
地中海諸島に広がったペストは1348年にヨーロッパ全域に広がりました。フィレンツェの北で医薬業を営んでいたと思われるメディチ家は、ペストの治療薬により莫大な財を築いたとのではないかとの説もありますが、有力商人となったメディチ家は1397年に自身の銀行を設立し金融業に進出したのです。バルディ、ベルッツィなどの商会がイングランド王などを相手にした貸付で失敗し、倒産したことなどにより、メディチ銀行は大銀行に躍り出ます。
メディチ銀行はローマやベネチアなどへ支店網を広げ、情報のネットワークを構築し、国際的な信用機構も作り上げました。また、ローマ教皇庁会計院の財務管理者ともなり、教皇庁の金融業務で優位な立場も得たことで、目覚しい発展を遂げることになります。当時の王室や教会などの支配階級にとり、金融のスペシャリストである銀行家はなくてはならない存在となっていたのです。
ただし、当時のキリスト教は利子を取ることを禁じていました。このため利用されたのが外国為替取引です。利子はアジオと呼ばれた異なる通貨の換算率の中に含まれ、手数料という名目で利子を取っていたのです。
メディチ家は銀行家として成功を収め、さらに政治にも進出しました。家門の中からローマ法王を二人輩出し、のちにはトスカーナ大公国の君主となりました。また、ルネサンス期の様々な芸術家たちのパトロンとなったことでも知られています。
メディチ銀行はバルディ、ベルッツィの破綻を教訓に、事業の分権化を図るなど一部地域の破局の連鎖を食い止める策を講じたものの、フランスのイタリア進行によりメディチ家の全財産は没収され、メディチ銀行も倒産という憂き目にあうこととなります。
2011.10.7「来年度予算案の概算要求は過去最大の98.4兆円に」
5日に締め切られた2012年度予算案の一般会計概算要求は、98.4兆円に上ることになった。要求総額は3年連続で過去最高を更新した。
国の予算編成の流れとしては財務省がそれぞれの省庁に対して、来年度予算として、どのくらいのお金が必要かを聞くところから始まる。これが翌年度予算において必要な金額を要求する概算要求と呼ばれるものである。
概算要求の前に財務省から要求の基準が設定されるが、この基準が概算要求基準(シーリング)と呼ばれるものである。シーリングとは天井、つまりこの場合には要求の限度額の事である。
2009年9月に自民党から民主党に政権が交代し、民主党は前内閣が決定したシーリングを廃止し、あらたな上限枠は設けずに、民主党のマニフェストの内容を反映した要求を求めた。ところが菅政権になってから概算要求基準が復活している。
2012年度予算編成においては9月20日に概算要求基準が閣議決定された。概算要求基準では、政策経費を1割カットし、削減分の1.5倍まで再生枠に要求できるようにした。歳出の大枠を2011年度当初予算並みに抑える一方、復興費は別枠扱いで、要求に上限を設けないとした。一般会計予算全体では、国債費などを除いた政策経費の上限は今年度と同じ71兆円程度に、新規国債発行額を44兆円以下に抑えるとしている。
概算要求基準に基づいて政府各省庁が財務省に提出する次年度の予算要求を行う。これが概算要求となる。各省要求額のうち、国債費や人件費などを除いた政策的経費はいずれも前年度当初予算を1割以上、下回り、概算要求基準を満たした。しかし、上限を設けずに受け付けた震災復興対策関連の要求額が3兆5051億円となったことで、全体が押し上げられた。
国債費や復興関連経費を除いた歳出の大枠は72兆3635億円で、今後、中期財政フレームで定めた70兆9000億円以下の水準まで削り込むことになる。
震災復興とデフレ脱却のための成長促進のためには、ある程度の規模の歳出も必要となろうが、いくら中期財政フレームで定めた経費を絞り込んでも、新規国債の発行規模は44兆円規模が予想される。
2011年度予算では、歳出規模は92.4兆円、国債費を除いた基礎的財政収支対象経費は70.9兆円、そして新規国債の発行額は44兆円規模となっている。ただし、震災復興のための第三次補正予算によりあらたに復興債が発行される予定でもあり、国債の発行額は実質的に44兆円を上回ることになる。
2011年度の税収は41兆円を見込んでいる。税収そのものは前年度に比べて増加しているようだが、それでも税収が国債発行額を下回るという異常な事態が続いている。
巨額の借金を抱えながら、収入以上の借金をしているのが、現在の日本の姿であり、いまのところは資金の貸し手には困っていないとはいえ、このような状況がこのまま継続できるとは思えない。
今年は東日本大震災と原発事後が重なり、復興のためには国の関与が必要となる。今後5年間の復興費は19兆円規模と政府は見積もっている。ただし、これまでの日本の財政を見てみても、財政再建をすすめようとするたびに、何かしらのショックや災害等により、その動きは抑えられ、結果的に歳出規模は膨らみ、税収は落ち込むというワニの口が形成され、それが一向に改善する見込みはない。
本来、日本の国債の利回りが財政の健全化を示すモニターとして機能するはずであるが、モニターの針は10年以上、ひとつの基準ともみられる2%というラインを超えることなく低位で安定している。このモニターの数値を見ている限り、まだ借金を続けることは可能と見られる。
ただし、桶に溜まる水には当然限度がある。外から見て、その桶の具体的な大きさはわからず、水が一杯になったのかどうかは、それが溢れ出してからはじめて知ることになる。長期金利という財政モニターも水が溢れ出すまでは、動かないのかもしれない。しかし、いったん溢れ出した水が確認されると、モニターの数値を一気に引き上げることになる。
そのような状況に陥りさせないようにするにはどうしたら良いのか。とりあえずは、来年度の歳出規模をなるべく抑えることしかできないかもしれない。しかし、もう少し先を見据えての行動も起こしておかないと、いつか水は溢れ出すことも確かであろう。
2011.10.6「牛熊ゼミナール金融の歴史第6回 銀行の誕生」
日本では銀行と訳された英語の「Bank」の起源も、政府による本格的な債務が開始された12世紀の北イタリアにあるとされています。英語の「Bank」の語源は、欧州圏の貨幣供給が増加し交易が活発化する中、当時の世界の貿易・文化の中心地であった北イタリアに生まれた両替商が両替のために使用したイタリア語「BANCO」(長机、記帳台)に由来するとされています。
ローマ・カトリック教会と連携した北イタリア商人は絹や香辛料貿易を活発に行っていました。十字軍に財政的な支援を行なった見返りに、十字軍の支配下に組み込まれた地中海東部全域における特権を得ていたのです。
この遠隔地間の交易のための開発されたのが「為替手形」でした。あらたな信用供与手法が構築されたことなどから、12世紀から14世紀にかけての北イタリアに「銀行の起源」があるとの見方があります。
12世紀のジェノバにはバンゲリウスという言葉が両替商を意味し、この両替商は預金を受け入れ、地元の事業主に貸付を行なっていました。また、13世紀のベネチアでは、バンコ・ディ・スクリッタと呼ばれる直訳すれば「書く銀行」、つまり帳簿上で決済を行なう振替銀行も誕生していました。
為替手形の開発などによって、銀行業を介在とした財の生産、そして交易によって中世の西欧経済が発達しました。ヨーロッパ各地の物産が交換され、また国内外の負債が決済される場でもあった国際定期市が、交易商人兼銀行家が特に活躍する場となりました。そして、イタリア人は商人から銀行家へと転職し、その代中にはルネサンス期を代表する銀行家・政治家となったメディチ家などがありました。
銀行の起源としては、17世紀のイギリスに求められるとの説もあります。当時の金の細工商であったゴールドスミスは、ロンドンでも一番頑丈な金庫を持つとされました。金を手元に抱え込むリスクを懸念した金所有者は、この金庫を持つゴールドスミスに金を預けるようになったのです。
ゴールドスミスは金を預かる際に、預り証を金所有者に渡し、この預り証(goldsmith note)が、現代の紙幣の起源との説があります。ゴールドスミスは、この金の預かりをしているうちに、預けられている金が常に一定量を維持していることに気が付き、預けられた金を運用するようになりました。こうして貸し出し運用が開始されたことで、これが銀行の始まりであるとの説があります。
2011.10.6「日本の長期金利は1990年の8%台から低下基調に」
前回は日本の長期金利が2%を割り込んだ1997年の様子を見てきたが、それでは日本の長期金利はいつごろから低下を始めたのかを確認してみたい。
1989年5月に日銀は公定歩合を3.25%に、さらに10月には3.75%に、12月には4.25%と引き上げ、完全に金融引締策へと転向した。それでも、バブルの勢いは年末まで続き、日経平均株価は、その年の大納会の大引けで3万8915円を付けた。結局、これがそれ以降20年以上にわたる株価の最高値となる。一方、債券相場は、公定歩合の度重なる引き上げによる短期金利の上昇で長短金利が逆転するという事態となっていた。
1990年は債券安・株式安・円安のトリプル安でのスタートとなったが、米国金融緩和期待の後退、ソ連情勢の悪化、日銀による公定歩合の再引き上げ観測などが要因であった。日銀は3月20日に1.00%という大幅な公定歩合の引き上げを実施し、5.25%まで引き上げた。
8月2日にイラク軍がクウェートに侵攻すると原油価格が急騰し、インフレ懸念が一段と高まった。その後、原油価格は下落したものの、物価上昇を意識してか、日銀は同月30日に公定歩合を0.50%引き上げ、年6.00%とした(第五次公定歩合の引き上げ)。これを受けて債券先物は急落し、9月27日には債券先物市場開設以来の安値となる87円8銭にまで下落した。長期金利もこの頃は8%台にあり、直近のピークをつけたのである。株価も大きく下落し、10月1日に日経平均株価は2万円を割り込んだ。
バブルの波に乗り、民間消費や民間設備投資に主導された経済成長が持続したことで、申告所得税、源泉所得税、法人税、そして有価証券取引税などを中心に税収は伸び、この時期には、一般歳出は抑制され続け財政再建策が取られていたことで、財政状況は大きく改善した。1989年4月からは、所得税や法人税などの大規模な減税と引き換えに消費税が導入されたこともあり、この結果、1990年度には特例国債依存から脱却するまでになったのである。
つまり、日本の長期金利が直近のピークにあった時点では、近年の中で、日本の財政状態は比較的健全な状態にあったといえる。
1990年9月、債券先物は史上最安値で底入れし、米国の金融緩和政策への転換や、円高などを受けて上昇基調に転じた。長期金利もピークアウトし、これ以降、低下基調となるのである。1991年7月からの日銀による度重なる大幅な公定歩合の引き下げも(1992年7月までに3.25%に)、債券相場にとって好材料視された。
1991年に入り、日銀は6月に短期金利の低め誘導を行い、7月1日には公定歩合を6.0%から5.5%に引き下げ、さらに11月14日、12月30日と続けて公定歩合を引き下げて4.5%としたが、これによる効果は限られた。
1992年1月に地価税が導入され土地神話は完全に打ち砕かれた。3月末に公共事業の施行推進など緊急経済対策が決定し、公定歩合も3.75%に引き下げられ、7月にも0.5%の追加引き下げが実施された。8月には総合経済対策が策定され、公共事業投資の拡大などを主体とした事業規模は10.7兆円までに達した。
1993年1月に大蔵省資金運用部が初めての国債買い入れを実施した。バブル崩壊後の景気回復が思わしくないなか、米国による内需拡大要請もあり、1993年4月に宮沢首相(当時)は事業規模13兆円の景気対策を実施したのであった。
1991年からの度重なる景気対策に伴う公共債の増発によって、その後、国債市場では需給悪化懸念が広まり始めた。そして1994年1月、高値警戒感も強まっていたところに、大蔵省資金運用部が約11年ぶりに債券の売りオペを実施したことも手伝い、これによって、債券価格は一時大きく下落したのである。長期金利は1993年末に3%台半ばにあったが、1994年夏にいったん5%近くまで上昇した。
2011.10.5「牛熊ゼミナール金融の歴史第5回 紙幣の誕生」
中国の唐の時代の後期には、茶・塩・絹などの遠距離取引が盛んになるなど商業の発達に伴い銭貨の搬送を回避する手段として「飛銭」と呼ばれた送金手形制度が発生しました。高額商品の売買には銭貨の「開元通宝」などでは量がかさんでしまう上、途中での盗賊などによる盗難の危険もあります。このため、長安や洛陽などの大都市と地方都市や特産品の産地などを結んで、当初は民間の富商と地方の商人との間によって「飛銭」という送金手形制度が開始されたのです。
これはたいへん便利なものであるとともに、手数料収入に目を付けた節度使(地方の軍司令官)や三司(財政のトップ)などもこれを模倣しました。飛銭を利用する際に使われた証明書(預り証)が、宋代になると交子・会子・交鈔・交引などと呼ばれ、証明書それ自体が現金の代わりとして取引の支払に用いられるようになりました。特に四川地方で発行された「交子」が世界史上初の紙幣とされています。
紙幣はたいへん便利なものであったことで、その需要が増え、それに目をつけた政府は軍事費に当てるための財源として交子を乱発し、その価値を失ってしまいました。新たな紙幣を発行するものの、やはり信用を落としてしまい、最終的には銅銭が復活することになります。
しかし、なぜ中国で世界最初の紙幣が誕生したのでしょうか。貨幣の材料となる貴金属などの産出が限られていたこともありますが、宋や元の時代の国家権力が強かったことも要因と指摘されます。それとともに遠隔地との交易など商業の発達がそれを促したものといえます。忘れてならないのは、紙そのものが中国で発明されたものであり、さらに印刷術も発達していたことが、紙幣の発行を可能にしたのです。
マルコ・ポーロの「東方見聞録」には、元で通貨ではなく紙幣で買い物をする様子を見て驚く場面が登場します。これからも当時のヨーロッパなどでは紙幣が使われていなかったことがわかります。
2011.10.5「日本の長期金利が2%を割り込んだ1997年に起きていたこと」
米国やドイツの長期金利が2%を割り込み、史上最低水準に低下してきているが、それでは日本の長期金利が2%を割り込んだのはいつであったかご記憶であろうか。
私のホームページの「債券ディーリングルーム」には1996年あたりからの債券市況が残してある。当初はメモ書き程度の記述ではあったが、その中の1997年8月27日に「現物指標銘柄は朝方ついに2%を割り込んだ」とある。
そこで1997年当時の様子をあらためて確認してみると、1997年5月にタイの通貨バーツの暴落を皮切りに、アジアの新興諸国の通貨が連鎖的に暴落し、東アジア全域の経済が大混乱に陥った。東アジア各国の株は急落し、成長率は軒並みマイナスとなり、企業倒産や失業が急増した。これに対しIMFを中心とした国際金融支援が特に経済に大きな打撃を受けたタイ、インドネシア、そして韓国に対して実施されたのである。いわゆるアジアの通貨危機があったのがこの年であった。
そして、日本では1997年4月に減税の財源として消費税の引き上げが実施された。財政構造改革とこの消費税の導入がその後の景気後退の要因と指摘されたが、バブルの後遺症ともいえる不良債権処理の遅れがその大きな要因となっていた。
この1997年には企業の破綻が相次ぎ、7月4日に東海興業、7月30日に多田建設、8月19日大都工業、9月18日ヤオハンが会社更正法の適用申請を行った。その後、11月3日に三洋証券が会社更正法適用を申請、17日には都銀の北海道拓殖銀行が経営破綻し北洋銀行への営業譲渡を発表した。さらに24日には証券大手の山一證券が自主廃業を届け出、26日には徳陽シティ銀行が分割譲渡と金融機関が相次いで破綻したのである。
このように国内外で危機的な状況に陥っていたのが1997年であり、そんな最中、日本の長期金利は低下を続け2%を割り込んだのである。ちなみに1996年に日本の長期金利は3%台、1995年には4%台にあった。
1997年に日本の長期金利は2%を割り込み、1998年9月11日には1%割れとなった。その後、1998年末の資金運用部ショックが起き、長期金利は上昇して12月30日には再び2%台を回復し、1999年2月5日に2.440%をつけた。しかし、それが直近での日本の長期金利のピークになり、それ以降は2%が日本の長期金利の上限の壁となっているのである。
はたして米国やドイツの長期金利は今後はどのような動きを示すのか。日本の長期金利が2%を割り込んだ1997年には国内外で大きな危機が生じ、それがその後の日本経済にも大きな影響を与え、長期金利は2%以内という低水準での推移が続いている。米独の長期金利が2%を割り込んだ今年も欧州での債務危機が起きている。このあと米独の長期金利についても本当に日本化が進むとなれば、両国の長期金利は2%以内に封じ込められる可能性も、日本の例を見る限りないとは言えないのだが。
2011.10.4「今週は国債入札、ECB理事会、米雇用統計など注目イベント目白押し」
今週は日本では短観発表や10年国債入札、日銀の決定会合、米国ではツイスト・オペの開始、雇用統計の発表、そして欧州では財務相会合、ECB理事会などの注目すべきイベントが目白押しとなっている。
昨日3日の朝に発表された日銀短観では、大企業製造業DIはプラス2となり、前回のマイナス9から大きく改善した。これは東日本大震災により寸断されたサプライチェーンが急速に復旧し、自動車産業などの生産が回復、消費の自粛ムードが和らいだことなどが要因とみられる。ただし、先行き見通しについてはプラス4となり、欧州の債務危機や欧米経済の減速懸念などから、回復ピッチはやや鈍る予想となっている。これはほぼ事前予想と同様の結果となった。
3日から4日にかけてユーロ圏財務相会合が開催される。EFSF拡充案に対する各国議会の批准は進んでいるが、ギリシャは次回融資を得ることが出来なければ、10月中にも政府資金が枯渇するとみられている。ギリシャでは欧州連合、国際通貨基金、欧州中央銀行の3者合同調査団との協議も再開されているが、17〜18日のEU首脳会合までの間にある程度の支援策がまとまらないと危機的状況となる可能性がある。ギリシャ政府は2日に、2011年の財政赤字がGDP比8.5%に達すると発表し、財政赤字が欧州連合などと合意した削減目標の7.5%に届かないことが明らかになっているが、ギリシャに対する支援策がまとまるのかどうか、ユーロ圏財務相会合の行方にも注意しておく必要がある。
債券市場では本日4日に実施される10年国債の入札動向にも注目が集まっている。利率は前回の317回債の1.1%から0.1%引き下げられ1.0%となる見込みである。利率1.0%となれば昨年の11月債以来となるが、1.0%近辺では高値警戒もあることで投資家も慎重になるとみられ、やや警戒も必要か。大手銀行の下期入りしてのスタンスを確かめる意味でも、この10年国債入札結果には注目が集まろう。
6日から7日にかけて日銀の金融政策決定会合が開催される。日銀については、よほど円高が進行するようなことがなければ、現状維持が見込まれる。こちらへの注目度は比較的薄いが、念のため、会合結果や白川総裁の会見内容もチェックしておきたい。
そして、6日にはECBの定例理事会、そしてイングランド銀行金融政策委員会も予定されている。ECBについては、金融システム不安の解消に向けて1年物資金供給オペの再開を決める見通しとなっている。一時出ていた利下げ期待については、9月のユーロ圏17カ国の消費者物価指数が前年同月比プラス3.0%となったこともあり、後退している。今回はトリシェ総裁の会見が予定されているが、トリシェ総裁は10月末で任期満了となることで、その発言内容にも注目したい。また、イングランド銀行のMPCでは、世界的な景気の減速が意識され、量的緩和策を拡大するのではとの観測もあり、こちらも注意しておく必要がある。
ニューヨーク連銀は、3日から27日にかけて13回のオペを通じ約440億ドルの国債を買い入れ、今月6日から28日にかけて、6回のオペを通じて同額の国債を売却すると発表した。「Maturity Extension Program」との名称ではあるが、いわゆるツイスト・オペが開始される。これを見越して米30年債の利回りは30日に3%割れ、10年債も2%割れとなっているが、実際にオペが実施されてからは、期待感で買い進まれていた反動で上値が重くなる可能性もある。
米国では7日には雇用統計の発表を控えており、米債も需給動向よりも経済動向にあらためて焦点が移る可能性がある。30日に発表された米国の8月の個人所得は、前月比0.1%減と市場予想に反して減少するなど個人消費にブレーキが掛かりつつある。米国のリセッションへの懸念も燻っているだけに、米国の経済指標の動向も引き続き注目を集めよう。
2011.10.3「牛熊ゼミナール金融の歴史第5回 日本における金利の起源」
日本の歴史の中での金利の起源についてみてみましょう。日本における金利の起源は世界史の中の金利の起源と同様には稲の貸し借りとなる「出挙(すいこ)」だといわれています。
貯蔵した初穂の稲を春に種籾として貸し出して、秋の収穫時に神へのお礼として五把の稲を利息の名目でお返しするというのが「出挙」で、これが日本における金利の起源であり、金融の起源ともいえます。
中国では古くからこういった利子付き貸借の慣習が存在し、日本でも同様の慣習が行なわれていました。文献などでは、日本書紀に「貸稲」の語が登場し、これが出挙の前身ではないかとの見方もありますが、実際には757年に施行された養老令において「出挙」の語が現れ、これが制度化された日本の金利の起源だとみなされています。
出挙という制度のそもそもの目的は、農民の生活を維持していくためのひとつの手段でした。出挙には国司が官稲を用いて行う「公出挙」と、個人が行う「私出挙」とがありました。律令制のもと、出挙は公出挙であれば、繁雑な事務を行わなくとも、強制的な公出挙を行うことで、多額の収入を確保することができたことなどから、国家の重要な財源となっていったのです。金利に当たる雑税のことは「利稲」と呼ばれていましたが、その利息は一般に公出挙で50%という高い利息だったのです。
2011.10.3「11月より債券先物の取引時間が変更」
東京証券取引所は11月21日(月)より、国債先物の取引時間を拡大すると発表した。11月21日から東証では、先物取引及びオプション取引を取り扱う「次期Tdex+システム」並びに株式及びCB等のToSTNeT取引を取り扱う「第3次ToSTNeTシステム」を本番稼働させる。これに併せて、現物市場及び派生商品市場における昼休みの短縮並びに派生商品市場におけるイブニングセッションの延長等の取引時間の一部見直しが行なわれるのである。
現在の国債先物(以下、債券先物)の取引時間は、前場が9時から11時、後場が12時30分から15時までとなっているが、11月21日からは前場が8時45分から11時2分、そして後場は12時30分から15時2分までとなる。
業者間での国債を主体とした売買を行なっている日本相互証券(BB)は、午前中が8時40分から11時5分、午後は12時25分から17時となっており、現物債の売買が集中するBBの取引時間を意識した時間延長といえる。
また、午後15時30分から開始している夜間取引(イブニングセッション)についても、これまでの18時の終了時間を11月21日からは23時30分まで延長される。こちらは、欧州時間での売買を意識したものといえる。
この時間延長については、幅広い投資者層の取引機会を拡大する観点から行なうそうであるが、果たしてこれが市場にとってプラス要因となるのかは定かではない。
朝の取引開始時間を早めることには意味はありそうではある。しかし、債券先物の寄り付きは前日の欧米市場の動向とともに、当日の株式市場の動向も意識することもあり、株式市場の開始前の取引は慎重になる可能性もある。
また、過去に短観や鉱工業生産などの経済指標の発表が8時50分となっているのは、東証の寄り付き前に発表を行なうためであったかと思うが、11月21日以降は先物寄り付き後にこれら経済指標が発表されることになる(ただし、CPIなどのように8時30分発表の経済指標も多い)。
そして、前場と後場の引けの時間が2分間だけ延長される意味がよくわからない。日本相互証券の午前中の終わりが11時5分であることで、それが意識された時間設定なのかもしれないが、何かしら別の要因があるのであろうか。サッカーでいえばロスタイムのような時間は果たして必要なのであろうか。
さらに、イブニングセッションが23時30分まで延長する必要が果たしてあるのであろうか。もちろん時間が延長されれば、それだけ取引機会が広がることは確かである。しかし、相場が開いている以上、もし人を張り付かせることが必要となれば、業者にとり負担がその分、増加することになりかねない。
また、相互決済は行なわれてはいないものの、LIFFEの円債先物取引との棲み分けも微妙なものとなる。それでなくても日本国債の先物は東証に集中されており、海外ではLIFFEがかろうじて売買が多少成立しているような状態にあるが、東証のイブニングセッションの延長により、LIFFEの売買に影響を与える可能性がある。参考までに、LIFFEでの日本国債先物の取引時間は、現地時間の朝7時から夕方4時までとなっている。
2011.10.2「ドイツ議会が批准したEFSF拡充案とは何か」
ドイツ連邦議会は29日、ユーロ圏の救済基金であるEFSFの機能拡充案を賛成523票、反対85票で可決した。EFSFの拡充案は7月のユーロ圏首脳会議で合意されたが、ユーロ圏加盟17か国による批准作業、つまり各国議会の承認が必要となる。
27日にスロベニア国民議会がEFSFの拡充案を可決し、28日にはフィンランド議会が拡充法案を可決している。ドイツも可決したことで17か国中10か国が承認したことになる。ユーログループのユンケル議長は、ドイツの承認を受け、ユーロ圏加盟17か国による批准作業は10月半ばまでに完了する見通しとの見解を示した。
ところで、このEFSF拡充案とはそもそも何であったのかを、あらためて確認したい。EFSFとは、「European Financial Stability Facility」の略で、日本語では「欧州金融安定基金」とも呼ばれているものである。
欧州金融安定基金は、2010年5月のギリシャ危機を踏まえて、EU(欧州連合)の加盟国によって合意された、ユーロ圏諸国の資金支援を目的とした基金である。ルクセンブルクに本部を置き、株式会社として登録されている。ただし、2013年6月までという期限が設けられ、その後は恒久的な危機対応の機関として、2013年に欧州版のIMFともいえる「ESM(欧州安定メカニズム)」がEFSFの業務を引き継ぐ予定となっている。
EFSFは、ユーロ圏各国の政府保証を裏づけに債券を発行し、それによって得た資金により支援を行なっている。この際に発行される債券、EFSF債は主要格付け会社からトリプルAの格付けを取得している。ちなみに、このEFSF債を日本政府は今年1月以来、外貨準備から27億ユーロ(全体の20%超に相当)購入した。野田首相はWSJのインタビューで、EFSF債をさらに購入する意向も示している。
EFSFは最大で4400億ユーロの加盟国保証付きの欧州金融安定化債を発行できる枠を持つが、実際に融資可能な金額は2500億ユーロとなっている。このため、ユーロ圏17か国首脳は、今年7月にEFSFの融資能力を実質2500億ユーロから、4400億ユーロの枠をフルに利用できるようにすることを柱にした機能拡充に合意したのである。
この機能拡充案では融資能力の拡大のほか、域内の銀行への資本注入、流通市場での国債購入、現行の救済策の対象となっていない国への融資も盛り込まれている。ただし、この拡充案の成立には、各国議会の承認が必要となる。
ギリシャでは、欧州連合(EU)、国際通貨基金(IMF)、欧州中央銀行(ECB)の3者合同調査団との協議が1か月ぶりに再開された。ギリシャは次回融資を得ることが出来なければ、10月中にも政府資金が枯渇するとみられている。ギリシャ向け融資の是非については、10月3日のユーロ圏財務相会合を経て、17〜18日のEU首脳会合までの間にある程度の支援策がまとまらないと危機的状況となる可能性がある。
このギリシャへの支援については、EFSFの機能拡充が大きな役割を果たすことが予想される。今回の機能拡充により、EFSF債券発行によって調達した資金を支援に回すだけでなく、ユーロ圏各国の国債購入が可能となる。また、銀行への与信枠を供与することなどの機能が追加されることで、欧州の債務危機に対して一定の鎮静効果も期待される。ただし、これが根本的な解決策になるわけではないことも確かである。
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